皇帝からの勲章と死の真相
この頃からチャイコフスキーの国際的な地位はますます高まっていきます。
皇帝から勲章を授かったことで毎年、年金が受けられるようになり、メック夫人に経済的に頼る必要もなくなっていました。さらに52歳になる年には、フランスでアカデミー・フランセーズのメンバーに選出され、イギリスのケンブリッジ大学からも名誉博士号が贈られました。
このように外面的には成功を収めたチャイコフスキーですが、それとは逆に内面はより陰鬱なものとなっていきます。メック夫人という重要な理解者を失い、さらにはカーメンカに嫁いでいた、兄弟の中で最も親しくしていた妹を亡くしたことも、その心に大きな影を落とします。
そんな彼は53歳になる年、新しい標題交響曲のアイデアが浮かびます。
その交響曲は人生を題材としたもので、4つの楽章でそれぞれ、情熱、愛、失望、そして死を描くというものでした。この曲は「悲愴」と名付けられました。「交響曲第6番」として知られているチャイコフスキーの最後となった作品です。
これは、チャイコフスキーの曲の中でも、最も大きな悲しみに満ちた曲となりました。
チャイコフスキーは、その作品の初演からわずか9日後に亡くなってしまいます。
長い間、死因はコレラによるものだと思われていましたが、1980年代にニューグローヴ世界音楽大辞典が自殺説を採用したことで、それまでの説が一気に覆されることとなりました。
自殺説とは、ソ連の学者がアレクサンドル・ヴォーイトフという当時を知る老人から聞き取った話が基になっています。
その話によると、ロシアの貴族の一人が、チャイコフスキーが甥と密通したとして訴える手紙を高級官吏のニコライ・ヤコビに託し、皇帝に渡すように頼んだのです。
実はヤコビはチャイコフスキーと同じ法律学校の出身でした。そのためこの密通が公になって学校にとって不名誉となることを恐れたのです。ヤコビは名誉法廷を組織し、チャイコフスキーが亡くなる約一週間前に法廷に召喚します。そこで「作曲家は自殺すべき」という判決が下され、その2日後にチャイコフスキーは危篤に陥るのです。
この説ではチャイコフスキーがヒ素系の毒を口にしたとされています。
チャイコフスキーの自殺説には矛盾点も指摘されており、現在では信憑性は低くなっていますが、仮に名誉法廷でチャイコフスキーが何らかの弁明を求められたのが本当だとすると、胸を締め付けられるような想いがします。
時間が経った現在では、チャイコフスキーの死因がコレラであった可能性が再び極めて高くなっています。自殺説を唱えていた学者たちはこれに強く反発していますが、資料の客観性ではコレラ説の方が圧倒的に優位な状態なのです。
コレラの原因としては、レストランで友人たちの反対を押し切って生水を飲んだことが挙げられていますが、これ以外にも様々な死亡説が唱えられており、今後の研究次第では説が変わっていく可能性もあります。
いずれにせよ、最後まで同性愛を隠さなければいけない社会で抱えた想いというのは相当重いものだったことでしょう。
文/車田和寿