どれほど異性嫌いだったのか?
ここで、チャイコフスキーは異性と一つ屋根の下で生活できないほどの異性嫌いだったのか、という疑問が頭をよぎります。
もちろん同性愛者である自分を偽っての結婚ですから、相当なストレスであることは想像できます。妻にもそれを打ち明けてはいなかったのですから、それはより一層強いものでしょう。
しかし、妻の行動にもいくらか問題があったのではないか、と臆測したくもなります。
彼女はチャイコフスキーと会うために脅しの手紙を送ったほどでした。さらに別居後はわざわざチャイコフスキーのアパートの上階に引っ越してきます。このような女性との生活は、仮に同性愛者ではなかったとしてもかなりのストレスがかかっていたかもしれません。
いずれにせよ、この騒動は、アントニーナがチャイコフスキーとは別な男性との間に私生児を儲けていたことが判明して無事に幕を下ろします。
しかしチャイコフスキーは、アントニーナの口からいつか自分が同性愛者であるという噂が立つかもしれないと、その後も安心して過ごすことができませんでした。
その結果、人との交流はなるべく避けて、可能な限りカーメンカや外国などで生活するようになっていきます。
40代の半ばになる頃には、ようやくそのような生活も落ち着きを取り戻します。そのきっかけとなったのが、チャイコフスキーが皇帝から勲章を授かったことでした。このことでチャイコフスキーの社会的な信用が高くなったのです。さらにオペラ「エフゲニー・オネーギン」の成功で自信を取り戻します。
一方で、メック夫人との14年にも及ぶ関係が終わりを迎えることにもなりました。メック夫人が破産したために年金を送ることができないとの手紙を受け取ったのです。
しかし、この破産の話は事実ではないようでした。チャイコフスキーは、真実を確かめようと手紙を送りましたが、届くことはありません。
結局そのことから誤解が生じ、二人は決別してしまうのです。チャイコフスキーは無視されたととらえ、自分が思っていたほどの友情をメック夫人が抱いていなかったのだと深く傷つきます。