共鳴する作品たちと、未来をひらく展覧会
二人の日本出身画家のスタートは対照的です。東京の中産階級に生まれ、美術の高等教育を終えて1913年に念願のパリ留学を果たした藤田と、岡山の労働者階級出身で、1906年に16歳で単身アメリカに労働移民した国吉。
圧倒的に後発(ビハインド)だった国吉が藤田に追いついたのは、欧州での第一次世界大戦ゆえでした。パリのアートシーンが戦争で停滞した間に、ニューヨークで国吉は就学を重ね、ともに事実上のデビューは1918年でした。見せ場をいくつか紹介します。
まずは「第二章 1922年から24年:異国での成功」での、藤田《タピスリーの裸婦》(1923)と国吉《幸福の島》(1924)の並置【図1】。20年代前半の裸婦の共演。そこから見える壁面には、藤田の1920年代パリでの絶頂期を象徴する、サロン出品作《五人の裸婦》(1923)と《舞踏会の前》(1925)が並び、圧巻です。ともに修復を終えた状態で並ぶのは今回が初めてです。
「第三章 1925年と1928年:藤田のパリ絶頂期と国吉の渡欧」。いまから百年前、パリでアール・デコ博覧会(現代装飾美術・産業美術国際博覧会)が開催されていました。
ともに日本に生まれながら、生涯、国内で出会うことがなかった二人でしたが、国吉がニューヨークから初めて渡欧し、同じパリに暮らし、制作し、展覧会や画廊、カフェを「共有」しました。
絶頂期の藤田と「巴里のアメリカ人」新人の国吉はすれ違うことはあっても直接交流には至らず、初対面は藤田の1929年秋の母国への一時帰国、そして世界大恐慌の勃発を経た、1930年11月から31年2月のニューヨーク。個展開催のためにニューヨークを訪れた藤田と、「ホームグラウンド」に戻って頭角著しい国吉のなごやかな出会いを示す資料が本展で初披露されています。
31年秋には国吉は生涯一度となる母国への一時帰国を果たしますが、その後、1930年代は満州事変を経て軍国主義化を強める母国の内外で、藤田はパリ生活を離脱して中南米長期旅行を経て、東京に定住、国吉は母校アート・スチューデンツ・リーグの教員業と並行して、「アメリカの作家」としての活動を深化させていきます。
続く見せ場は、1940年のパリとニューヨークの作。藤田は1939年春に久しぶりにパリに渡りますが、すぐに第二次世界大戦が勃発。翌年初夏に東京に戻るまでの一年の制作には高揚感があふれています。《猫》(1940)と《猫のいる静物》(1939-40)は藤田日記によれば、パリのアトリエで同時進行で取り組んだ同サイズで双子のような作品です。
さらにその隣に、国吉が1940年ニューヨークのアトリエで描いた《逆さのテーブルとマスク》(1940)を並べました【図2】。欧州での戦争がいずれアメリカやアジアに広がる不安をそれぞれに受けとめた作品を見比べてください。
続く「第六章 1941年から45年:日米開戦下の、運命の二人」では、冒頭に1943年のそれぞれの自画像を配置【図3】。続く、藤田の「対米作戦」に絞って選んだ作戦記録画二点と、国吉の1940年代前半の名品《誰かが私のポスターを破った》(1943)、《跳び上がろうとする頭のない馬》(1945)、《夜明けが来る》(1944)が祭壇画のようにならぶ空間が本展のクライマックスです。
「第八章 1949年ニューヨーク:すれ違う二人」では、終戦後、占領下の日本から1949年3月に脱出をはかりニューヨークに10か月暮らした藤田と、国吉の反応を、両者の1949年の絵画とアーカイブ類で探りました。
展覧会を締めくくる「第九章 1950年から53年:藤田のフランス永住と国吉の死」では1952年の作、国吉《ミスターエース》と藤田《二人の祈り》【図4】で終えました。
後者は藤田の戦後の宗教画の始まりで、君代夫人が最晩年まで手元に残していた遺愛の作です。こののち、藤田夫妻は1955年にフランス国籍を取得、日本国籍を放棄し、59年にカトリックに改宗します。他方、国吉は50年近くアメリカに住んでも移民法の関係で「日系一世」として市民権を得ることができず、1952年に移民国籍法が議会を通過し、ようやく手続きを始めた段階で彼の命は日本国籍のまま尽きました。
1918年の国吉の自画像で始まったこの展覧会は、国吉の最晩年の謎めいた自画像――仮面を外す姿で終わります。
二人の日系/アジア系男性が20世紀前半にかくも欧米圏で自らの身体を隠したり、改変した理由はなにか。国吉は1940年代以降に繰り返し描いた「仮面」は、藤田の20年代からの「身体加工」、おかっぱ頭やピアスに通じるものを感じます。アジア系への偏見がいまだ強い先進国で、西洋的な技術=油彩画による専門職として生きた二人の生き抜く「術(すべ)」だったのかもしれません。
実のところ、藤田の21世紀以降の国内外での展覧会・出版ブームの陰で、国吉を見る機会は限られてきました。今回の展覧会カタログは両作家の最新の研究成果をまとめた図版、論考、コラム、作品情報、年譜を備えた日英バイリンガルで、今後のパリやニューヨーク、そしてアジア圏への研究や展示の広がりを期したものです。
盛夏の時期、大阪・関西万博や瀬戸内国際芸術祭2025で西日本方面にお出かけの節は、ぜひとも神戸にも足を延ばし、この稀有なる展覧会空間と絵画作品の「もの」としての存在感をリアルに体感してください。
兵庫県立美術館と隣接する公園は、阪神淡路大震災からの復興の象徴として、安藤忠雄氏のキャリアでも世界最大級の設計プロジェクトなのです。
なお、『手しごとの家』ではじめて総体的に扱った藤田と写真の関係性は、7月初めから東京ステーションギャラリーで始まっている「藤田嗣治 絵画と写真」展(2025年7月5日-8月31日)に発展しています。わたしも寄稿しています。
文/林洋子