オーバーアチーバーという尊い存在
内田 僕の経験から言って、たぶんどんな集団にも全体の10%から20%ぐらいのフリーライダーは必ず発生する。それはその人たちの気質や能力の問題じゃなくて、「なんとなく、もののはずみで」なんです。
それが20%を超えると困るけども、15%以下までなら、それはその集団の制度設計が「わりと雑」だということで、それはむしろ「居心地がいい」ということの証明なんです。そして、組織が「わりと雑」である方がオーバーアチーバーはオーバーアチーブできる。
オーバーアチーバーは別に出世や昇給を求めているわけじゃない。彼らが一番求めているのはフリーハンドなんですよね。僕たちの好きにさせてください、と。管理されること、成果を査定されること、素人にあれこれ口を出されることが嫌なんです。だから好きにさせておけばいい。フリーライダーがもたらす損失なんて、彼らが埋めて余りある。
この道場にもフリーライダーはいますよ。月謝を払わずに稽古だけして、宴会でただ酒飲んで、それっきり来ない人だっている。でも、しようがないんですよ。探し出して、「未納分払え」とかいうコストを考えたら、「けっこう陽気な奴だったね。あいつがいると座が盛り上がったなあ」くらいで笑って済ませる方がいい。
でも、いろいろなコモン論を読みましたけれど、フリーライダーのもたらす害悪について書かれたものはあるけれど、「オーバーアチーバー」という文字列を見たことがない。
李 コモンの自治に関しては、「共有地の悲劇」を提唱したギャレット・ハーディンは、「フリーライダーが絶対生じるから、企業が占有するか国が所有するしかない」と言っていますが、ノーベル経済学賞のエリノア・オストロムは、「現実の事例を見たら、国も企業も所有していない自治で行われるコモンもある」と、膨大な事例からいくつかの成功例を紹介しています。ただ「オーバーアチーバー」という単語はないですね。
内田 ないと思います。その発想がないんです。コモンは静態的なものじゃないんです。生き物なんです。うまい仕組みができました。これで完成したのであとはこれをそのまま維持しましょうというわけにはゆかないんです。人間が集まって作っている共同体は多細胞生物のような生命体ですから。連続的に変化するものなんです。
李 オーバーアチーバーと聞くと、両親が教師だからかもしれないですけど、僕は「先生」が思い浮びます。たとえば子どもの頃、家でニュースを見ていて東欧の民族紛争の話が出てきたら、聞いてもないのにたくさん教えてくるんです。「昨日までの隣人が殺し合うことがいかに悲惨か」みたいに。「へえー」と思って聞いていましたけど、でも気がつくと僕も同じようなことをしている。
「こういうことを知りたいけれど何かいい文献ありますか」と学生に聞かれたら、めっちゃ調べて、めっちゃ本持っていくんですけど、「いや、そこまでじゃなかったんですけど」みたいな(笑)。ああ、そうだったんだ……って気落ちしますけど、教師もやっぱり「何か教えたい」という衝動があって、教える仕事をしているのだと思います。