防災バッグを準備するだけでは不十分

長谷川 ともあれ、こうした気象情報というのは、まず皆さんに見てもらわなければ始まらないですし、見るだけでなく自分に対するシグナルとして受け取ってもらい、行動してもらわなければ価値が出ません。気象庁や自治体などがどれだけ頑張ったところで、最後に行動をするのは人ですから。

荒木 そうですね。それから私がよく言うのは、備えるといっても防災バッグを用意するだけでは不十分だということです。これはとても重要なことで、例えば非常用トイレは、慣れていないと意外と使うのにコツが必要で、失敗して衣服を汚してしまうようなことも起こり得ます。ぜひ一度、実際に使って練習しておいてほしいですね。

長谷川 確かにその視点は大切ですね。

荒木 阪神・淡路大震災や東日本大震災のときも、避難所のトイレが汚物まみれで、ずっと使えない状況が続いていたと聞きます。よくあるサバイバル術的な防災本では、自宅の庭に穴を掘ってトイレ代わりにする方法などが紹介されていますが、専門家に言わせれば、これは衛生的には絶対にやってはいけない手法なのだそうです。

長谷川 防災バッグに備えてあるから安心、で終わってはいけないですよね。だからこそ、こうして声を大にして発信してくれる荒木さんのような存在が必要なんですよ。

荒木 しかし実際には、人はなかなか行動を変えてくれません。
 

長谷川 社会全体がそういう意識に向かわないと難しいでしょう。気象庁のときにつくづく思ったのは、人々は普段通り、予定通りが「好き」なんです。とにかく、台風が来ようが約束したところには行きたいし、仕事も行かなきゃならない……。

それは当たり前なんですが、私たちがやっていることは、「それだと危ないですよ」と言って、人々に日常をあきらめてもらうという仕事なんです。

最近では、例えば台風や降雪の予報に合わせて、鉄道が計画運休をしたり、高速道路では予防的通行止めを実施したりするようになりました。社会に大きなインパクトが出てしまうものの、「台風だから仕方がない。今日の約束はなしにしよう」と、皆さんが考えてくれるひとつのスイッチになっていると思います。

荒木 そうですね。また、会社でも「ちょっとリスクが高そうだから、今日はリモートワークにしましょう」などとマネジメント側が積極的に言うことで、社員の命や安全を守るのが当たり前になれば理想的です。

長谷川 さらに言わせていただくなら、荒木さんの『防災の超図鑑』のように、子ども向けに啓発していくことも重要かもしれません。

『すごすぎる天気の図鑑 防災の超図鑑』
荒木健太郎 KADOKAWA 
1485円(税込)
『すごすぎる天気の図鑑 防災の超図鑑』
荒木健太郎 KADOKAWA 
1485円(税込)
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荒木 実は、私が発信する情報に触れているお子さん経由で、ご家族がリスクに気づくケースも少なくないんですよ。やはり子どもの興味というのはすごいので、散歩や買い物の途中に「お母さん、あの雲が出てるから天気が急変するんじゃない」と親御さんに伝え、「じゃあ早めに帰ろうか」となって濡れずに済んだエピソードを、読者の方からよくお聞きします。

長谷川 それは素晴らしいですね。実情として、子どもの教育現場について気象庁ができることには限界がある中で、本当に有意義なことです。

荒木 ただ、この『防災の超図鑑』にしても、書いてあることを全部やろうとすると手が回らないでしょうから、まずはできることからやってみることを勧めています。

長谷川 そのためにも、業務開始から一五〇年の節目を迎えた気象庁としても、私たちも、引き続き情報をわかりやすく正確に伝えること、それを使って命を守ってもらうことに力を尽くしていかなければなりませんね。


構成=友清 哲 撮影=村上庄吾
(集英社クオータリー コトバ 2025年夏号より)

kotoba 2025年夏号
コトバ編集室
kotoba 2025年夏号
2025/6/6
1,550円(税込)
228ページ
ISBN: -

特集
いまを生きるための哲学


戦争、トランプ2.0、AIの急速な進化、気候変動、広がる格差……
社会が大きく揺れ動き、情報があふれる時代であるいまこそ、「哲学」が求められています。
「なぜ生きづらいのか」「この社会でどう在るべきか」「この先に希望はあるのか」――。
こうした問いは、私たち一人ひとりにとって切実なテーマであり、そこに向き合う姿勢そのものが、哲学だと考えます。
先人たちの言葉、哲学や思想の現在地を手がかりに、いまを生き抜くための哲学を探ります。

Part 1 求められる哲学
東 浩紀 トランプ2.0時代を生きる
内田 樹 武道における「修行」とは何か
國分功一郎 中動態と責任論
中島岳志×戸谷洋志 「弱い責任」で連帯し、「利他」が循環する社会へ
岡﨑乾二郎 私たちの認識と世界を結び直す
中村 達 カリブ海の知――複数の「我々」を肯定する

Part 2 哲学でいまに向き合う
三宅陽一郎 人工知能と哲学 世界を巻き込むこの深い関係
編集部 生成AIと哲学する その1
朱 喜哲 哲学を制するものがデータ社会を制する
大澤真幸 カント『永遠平和のために』から考える戦争のない世界
適菜 収 狂った時代に正気を保つためのほんとうの保守思想
篠原 信 世界の「常識」をアップデートしよう!

Part 3 どう哲学と出会うか
島田雅彦 我歩く、ゆえに我あり 散歩と哲学、あるいは散歩の哲学
編集部 生成AIと哲学する その2
魚豊 フィクションは哲学に直結する
吉川浩満 哲学をこじらせて――惑溺と割り切りのあいだ
前川仁之 哲学者ブルース・リー私抄
川喜田 研 街場の哲学の現場――「哲学カフェ」に集う人たち
編集部 kotobaが選ぶ哲学の本30冊

【ルポ】
芳地隆之 災害関連死をなくせ――能登半島地震「コミセン構想」を追う

【対談】
長谷川直之×荒木健太郎 「防災の言葉」を伝える

【鼎談】
平芳裕子×栗野宏文×龍淵絵美 ファッションの現在地と未来

【インタビュー】
みき 目の見えない私が料理からみつけたこと

連載
大岡 玲 写真を読む
山下裕二 美を凝視する
足立倫行 〈新連載〉 古代史を考えなおす
大野和基 未来を見る人
橋本幸士 物理学者のすごい日記
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町田麻子 〈新連載〉 ことば万華鏡 ミュージカルの訳詞の妙技
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木村英昭 月報を読む 世界における原発の現在
おほしんたろう おほことば

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著者インタビュー  柿沼陽平『古代中国の裏社会 伝説の任俠と路地裏の物語』
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