農村から100円で売られてくる少女たち

公娼として働く女性〝公娼婦〟は、農村から売られた娘が多かった。農村では不作や不景気になると娘を売ることが多かったのだ。昭和初期には不景気のため、東北地方などの農村から身売りされる娘が増えた。

戦前は、就業者の半数が農業であり、農作物の出来具合が、国民の生活を左右した。特に東北地方ではそれが顕著であり、不作の年には、食うために娘を売る農家が非常に多かった。

たとえば、昭和9(1934)年は、東北地方では40パーセントの減収という大凶作だった。地域によっては、収入がほとんどないところもあった。岩手県では、6人に一人の子どもが、救済を必要とする栄養状態だったという。そのため「手っ取り早くお金を得るため」と「口減らしのため」に娘を売ったのである。

〝娘を売る〟とき、あからさまに親が公娼に売ることはあまりなかった。最初は女中奉公に出すという形で、娘を斡旋業者に売る。しかし女中ではなく、売春をさせられるというパターンである。当時の東北の小学校卒業者の少なくとも76人に一人が売春をしていたという。

農村で働く女の子(写真はイメージです)
農村で働く女の子(写真はイメージです)
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各農村には、売春業者の斡旋人のような者がいた。彼らは、普段は普通に農業をしているのだが、遊郭の業者から金をもらっており、小学校を卒業する娘がいる家などを回って、〝働き口〟の紹介をするのだ。

「学校を卒業したら、百姓の手伝いをするより、都会で屋敷奉公をしたらどうだ。行儀見習いや裁縫も習えるし、仕送りもできる」

などと甘言を弄するのである。

親たちは、お金が欲しいし、口減らしにもなるということで、その甘言に乗ってしまう。娘たちの行く先は、屋敷奉公などではなく……ということである。

そして一旦娼妓となれば、なかなか足を洗うことができない。衣服などを買い与え、それを法外な値で借金に上乗せするのだ。また親が、斡旋業者にさらに借金をすることもある。その借金は、娘に背負わされる。だから、彼女らはいくら働いても借金が膨らむばかりなのである。