ナチスを批判して殺害者リストに入れられる
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領は、アドルフ・ヒトラーを首相に任命。ここに、ナチ党や国家人民党などの右翼勢力の連立によるヒトラー内閣が成立しました。
カリフォルニア州のパサデナで、統一場の研究をしていたアインシュタインは、大きな決断を下します。
「私は、故国へ戻らない」
ニューヨークで記者会見を開くと、アインシュタインはそう宣言し、二度とドイツに戻ることはありませんでした。
それも無理はありません。ナチスは公然とユダヤ人迫害を始めると、ユダヤ人で反戦活動を行うアインシュタインのことを敵視。相対性理論をインチキだと罵倒して、アインシュタインの著作を焼き払ったのです。
さらに「大量の武器が隠されている」という疑いから、アインシュタインの別荘の捜査まで行いました。
アインシュタインは移動中の船上からラジオを通じて、ナチスによるユダヤ人への無差別暴力を非難する声明を発表。それに対してナチスは、アインシュタインの銀行口座に手を出して、預金と有価証券をすべて没収するという暴挙に出ています。
しまいには、「アインシュタインを殺した者には5000ドルを与える」と懸賞金までかけました。身の危険を感じたアインシュタインが、アメリカへの移住を決めたのは、もっともな選択でしょう。
母国のドイツ以外のあらゆる国から講演の依頼が殺到していたアインシュタインは、1933年9月から1カ月、イギリスに滞在。ドイツから亡命してきた学者を援助する「亡命者救済基金協会」が主催する講演会でこう訴えました。
「もし自由がなかったならば、シェイクスピアもニュートンも、ファラデーも、パストゥールも、生まれてこなかったであろう。また、自由がなかったなら、鉄道もラジオも、人の住む立派な家も、世間一般の文化も、生まれてこなかったであろう」
アインシュタインにとっては、新しい挑戦に向けた意欲的な時期となるはずだった50代は、平和を脅かす陰鬱な雰囲気に覆われることになりました。どうしてみんな自分のことを放っておいてくれないんだ。そうため息ついた夜もあったことでしょう。
しかもプライベートでは、1936年に妻のエルザが闘病の末、60 歳で死去。アインシュタインは57歳にして、伴侶を失います。