「当初の年収はマイナス100万円ほどでした」
急激に需要と供給のバランスが崩れて「米騒動」にまで発展した原因は何だったのだろうか。
「一番の原因は、これまでの農業政策に尽きると思いますよ。減反政策をはじめ、ずっと『作るな、作るな』という政策を受けてコメ農家が減る一方だったところ、そこに需要がグッと高まったということがあると思います。
それから暑さで収量が減っています。この辺の地域では暑さのなか育ったコメは精米時に15%ほど収量が減少します。暑くなると稲に水をかけて冷やすのですが、そのせいでコメが細くなり糠(ぬか)をまとうので、不可食の部分が増えてしまう。だから今年からはまだ暑さに強い品種の『にじのきらめき』を多めに作ろうと思っています。
需給バランスはもちろんですが、単純にコメ農家の数がどんどん減少していることもあります。コメが足りないから急に収量を増やしたいと言われても、無理な話です。コメは昨日今日で出来るわけではありません。
僕自身、コメ農家になると決めた時、周囲からは『サラリーマンを続けた方がいい。農家は儲からない』ってさんざん言われたし、実際にやってみると本当に利益が出なくて苦労しましたからね」
20代半ばという若さでこの世界に飛び込んだ岡田さんが体験したこの15年間は、激動の連続だった。
「僕がこの世界に入るきっかけは、今から15年前に母方の祖父母がコメ農家を引退することになったからです。僕自身は木材の製材業の会社に勤めていて、木材を運送したり、CADを使って図面を引く仕事が主のサラリーマンで、農業とはまったく関係のない仕事をしていました。ただし、幼いころに祖父母の家に遊びに行って種まきなどを手伝ったこともあって、その記憶は楽しいものでした。
それもあって祖父母に『コメ農家を辞めるなら僕にやらせてほしい』と申し出ました。祖父母はすごく喜んでくれていたのですが、計画的に進めたわけではなく、勢いでコメ農家に飛び込んだという感じでした」
会社員時代に苦手だった人付き合いの悩みも、コメ農家になれば解消されるとの淡い期待もあったという。
「コメを作ってJAに卸すだけで人付き合いとかないんじゃないかと期待していましたが、おコメ関係をはじめ地元の方や政治家など、人付き合いは今までよりはるかに増えました(笑)。
そして収入に関しては言われていた通り激減しました。サラリーマン時代は年収が400万円くらいでしたが、コメ農家を始めた当初の年収は、サラリーマン当時と比べて、マイナス100万円ほどでした。なので日中は工場でバイトして夜に田んぼに出てという生活を送っていました。
トラクターやコンバインなどの機械にお金がかかるのがマイナスの要因なんですけど、僕にとってはモチベーションでもあるんです。ほら、このコンバインでかくてかっこいいでしょ? 普通のコンバインの2倍くらいの大きさで、僕が買った時は1200万円でしたが今は値上がりして2000万円近くするんですよ」