膵臓がんの診断がついたのは、3軒目の病院だった
――ご著書『抗がん剤を使わなかった夫~すい臓がんと歩んだ最期の日記~』は、叶井さんの肌の色が日増しに黄色くなっていくことを心配した倉田さんが病院へ行くよう催促する場面から始まりますよね。それでも叶井さんは最初、意に介していません。
倉田真由美(以下同) はい、2022年5月のことでしたね。よく「どのくらい黄色かったんですか」と聞かれるのですが、目まで黄色くなっていて、明らかに見てわかるレベルでした。
当然、それは膵臓がんによる黄疸なわけですが、病院に行っても緊急性が高いとは判断されなかったんです。医師も「もし黄疸だとしたらとっくに死んでいる色だから、胃炎でしょう」と診断しています。膵臓がんの診断がついたのは、3つ目の病院でした。
――そのくらい、元気だった。
そうなんです。末期がん患者と言うと、すぐに死にそうな状態を思い浮かべると思うのですが、夫の場合は違いました。実際、亡くなる前の月まで会社にも出社しています。
だから同じ病気であっても症状はまったく異なるし、人によってさまざまだと痛感します。
――ご著書のなかでは、叶井さんがいつ何をどのくらい食べたのかなどが、わりと細かく記載されていますよね。当時は日記をつけていたのですか。
日記と呼ぶほどではないのですが、本当にメモや走り書きの類を書き溜めていました。夫が膵臓がんの宣告を受けてから、メモのほか、録画や音声にも残しています。こうした記録をしておいてよかったと思うのは、思い返すことができるからです。
特にメモは、さらっと書いたことであってもその当時を追体験できるため、残しておいてよかったと思っています。思い出と紐づいているから、きちんと情景が蘇るんですよね。夫は普通の人よりはメディアに出ることも多かった分、記録されたものもきっと多いけれど、私が知らないところで撮影されたものよりも、自分で撮影した夫のほうに親しみを感じます。
――印象的なメモはありますか。
たとえば「もつ鍋の取り寄せ」というメモがあります。夫が「もつ鍋を食べたい」と言ったので、結構いい値段のするもつ鍋を奮発して注文しました。もつ鍋が届く日、私は用事があって早く帰宅することができず、家族で一番最後に帰りました。
もつ鍋は要冷蔵だったのですが、それを知らない夫と娘はそのままにしていて(笑)。結局、だめになってしまったんです。すぐにそのまま買い直せばよかったのでしょうけど、それもなんだか癪で、「そのうち買おう」と思っていました。
しかし夫は体力が低下してしまい、結局もつ鍋を食べさせてあげることはできませんでした。