「先生は私の知らない私を教えてくれる」
ほんとなら個性を見抜いて使ってやるほうが強いし長持ちするんですが、個性を大事にするより平均化してしまったほうが仕事はずっと早い。性格を見抜く力もいらん。そんな訓練もせんですむ。それなら昨日始めた大工でもいいわけですわ。
(中略)そして逆にこんどは使いやすい木を求めてくるんですな。曲がった木はいらん。捻(ねじ)れた木はいらん。使えないんですからな。そうすると自然と使える木というのが少なくなってきますな。それで使えない木は悪い木や、必要のない木やというて捨ててしまいますな。これでは資源がいくらあっても足りなくなりますわ。
そのうえ大工に木を見抜く力が必要なくなってくる。必要ないんですからそんな力を養うこともおませんし、ついにはなくなってしまいますな。木を扱う大工が木の性質を知らんのですから困ったことになりますわ*5。
この描写が、今日の教育政策に対する痛烈な風刺に見えるのは私だけだろうか。
「個性を大事に」と掲げつつ学力テストで子どもたちの違いを削ぎ落とし、学習スタンダードによる授業の画一化で教員の自由を奪い、規律に従えない子どもはゼロトレランスで排除し、操作さえ覚えれば誰でも授業ができるオンラインコンテンツで教員の脱技能化を進め、教員不足は特別免許状を乱発して「即席教員」で穴埋めする……。
「早く安く効率的に」を求める資本主義が職人を必要としなくなったように、「グローバル人材」の大量生産を教育の目的とする社会は、そもそも「先生」を必要としない。
もし、人類が本気で「地球の持続可能性」を目指そうというのなら、まずは私たちが自然の中に生かされているという原点に立ち戻ることだ。教育学者の大田堯(おおたたかし)が言い続けたように、教育を生命の営みの中でとらえ直すことだ。
千葉県船橋市立船橋高校吹奏楽部の定期演奏会で、かつて部長を務めた卒部生がこう言っていた。
「先生は私の知らない私を教えてくれる」
生命は、一人ひとり全く違う子どもの癖を見抜き、無限の可能性を引き出し、その子が命をまっとうできるよう生涯にわたって心の支えとなる……。そんな先生がいま求められている。
脚注
*1 西岡常一・小川三夫・塩野米松『木のいのち木のこころ〈天・地・人〉』新潮文庫、2005年、p.17
*2 同上、pp.14-15
*3 同上、p.20
*4 同上、p.15
*5 同上、p.22-23
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