危険な特別免許状の乱発
それにしても、なぜこのような発想が生まれるのだろうか? その背景には、貧弱な教育観に基づくいくつもの前提がある。
1 教員免許は必要ない。教科に関する専門知識さえあれば誰でも教えられる。子どもを教えるにあたり、教職課程で勉強するような子ども理解や指導に関する教育学的な知識は必須ではなく、民間企業における経験でカバーできる。
2 授業をするにあたり、指導者が生徒の名前や特性を知っている必要はない。そして、生徒は信頼関係のない大人の話でも真面目に耳を傾け、授業を受けることができる。
3 年間を通じて、複数の個人で教科指導を分割しても指導の一貫性や評価に支障はなく、生徒の成長を正当に評価できる。
4 授業時数さえカバーできれば、子どもの学習権は保障できる。
5 特別免許状を乱発しても、教員の質は担保できる。
もちろん、どれも間違っている。もし、授業を通して知識の伝達をするだけでよいのなら、確かに教員免許は必要ないのかもしれない。ただ、それなら学校と塾との違いがわからなくなる。
教育基本法が定める教育の目的は「人格の完成」であって、だからこそ学校にはさまざまな行事や課外活動が設けられており、生徒の人としての成長を促す機会がある。それらを含めたさまざまな活動を通して初めて子どもの学習権が保障されるわけであり、教科指導に関する専門的な知識だけではどうにもならない。
生徒一人ひとりの特性、長所、そして課題を見極め、年間を通して彼らの成長を見届ける「担任」が必要なのもそのためだろう。
日本における教員の社会的地位を高めることが必要だと思うか?
もし、この問いに対する答えがイエスならば、フィンランドのように教員志望者に高度で専門的な教育を課すと同時に給料を上げ、その専門性と現場での自由裁量を尊重し、多くの人々が「教員になりたい!」と思える労働環境を整えることを目指すべきだろう。
それなのに、「教員の仕事は片手間でやれる」というメッセージを送りかねない特別免許状の乱発は逆に危険だ。
確かに、日本の教員不足は猫の手も借りたいほど深刻だ。だから保護者や地域の人々が交替しながら教室に入ればどうか、という意見も出てくる。応急措置としてはやむを得ないのかもしれない。
しかし、大事なのは、これらの議論が新自由主義的な文脈の中で行われていることであり、長期的なビジョン、そして貧弱な教育観の克服なしには、いつしか教員派遣が純粋な「ビジネス」となり、利益追求の中で教育的な理念を失っていく可能性が高いということだ。
そうなれば「効率性」の追求に歯止めが利かなくなり、ICTを用いた遠隔での一斉授業、タブレットなどに依存し切った「個別最適化学習」、そして教員の削減へと向かっていくのだ。
片手間でもよければ教えたい、という教員はいらない。私たちが本当に必要とするのは、「子どもたちを教えることが私の夢」という人間ではないのか。誰もが教員になりたがる社会の実現ではないのか。
脚注
*1 鈴木大裕『崩壊するアメリカの公教育日本への警告』岩波書店、2016年、p.60
*2 ちなみに、アメリカにおける「教員輸入」の問題は、専門職職業ビザや交流訪問者ビザという政府による公式な入国許可証明制度がもたらす信憑性が、人材派遣会社による悪質な搾取の隠れ蓑になった点、先進国における人材不足を発展途上国からの派遣で解消する過程で専門職の「使い捨て労働者」化が進んだ点において、日本における外国人技能実習生制度を用いた介護士不足の解消と極めて類似している。
*3 鈴木大裕「もう『教員不足』という言葉を使うのをやめよう」『クレスコ』2019年5月号。
*4 「『教員不足』で緊急通知〝特別免許制度の積極活用を〟文科省」NHK、2022年4月21日。
*5 佐久間亜紀「なぜ教師不足が生じているのか」『教職研修』2022年6月号。
*6 勝野正章「教職の『非専門職化』と『脱』非専門職化』」『人間と教育』2018年春号。
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