「執着」と「ありがたい」は違う
もちろん佐々井さんは誰かれ構わず出家させているわけではなく、「なぜ僕なんですか!?」と失礼な質問もしたが、「俺には心眼があるんだ」と言われた。
ちなみに「龍雲」の名の由来は「龍が出る時には雲が起こる。お前は俺の前に突如として現れ、何かを起こしそうな気概がある!」とのこと。
兄弟子となった龍光さんは「ときには流れに身を任せるのも大事」と言ってくれた。急流すぎ! とは思いつつ、僕としては佐々井さんの生き方に心から感じ入っていたこともあり、今の挑戦を続けながらでも良いなら、この流れを受け入れてみようかと思った。その後も師匠や兄弟子には何かと応援していただいている。
工芸品を扱う仕事だから、モノへのこだわりは仏教と相容れない「執着」では、と悩みもした。ただ、佐々井さんが「執着と、ありがたいと思いながら使うことは違う」と仰ったことがヒントになった。
お釈迦さまのお弟子のひとりが、師からもらった袈裟をボロボロになるまで着て、絶対に離さなかったという話がある。これはけして執着ではなく、いただいたものにありがたみを持って接したのだろう。
僕も工芸にこだわるうえで、感謝やありがたみを大切にしたい。石や木や土が器になるとき、大きな時間の流れの中で変化の縁みたいなものに関わるのが職人さんだと思う。だから彼らは、自然の周期や流れに刃向かうようなものづくりはしない。
もともと僕は、社会貢献に身を捧げるようなタイプではない。創業時の発想も、日本文化のマネタイズみたいなことができたら格好良いな、というものだった。ただ、全国の職人さんとお付き合いするなかで、お世話になった人たちが希望を持てない産業になってはいけない、彼らに少しでも恩返しできることは何だろうと考えるようになった。
また、会社経営にはお金も必要だが、何より、ものづくりのための事業を大切にしたい。そうしたバランス感覚を、インドに行く前は持てていなかった。いつしか皆が疲れ、心身に深刻な不調をきたす者まで出てしまった。だからこのとき立ち止まり、何のために会社をやるのか再認識できたのは、すごくありがたかった。
当然ながら、会社の仲間たちは驚いたと思う。帰国後、東京駅で待ち合わせしたが、彼らからすれば、向こうから頭を剃ったオレンジ色の男が歩いてきて、それが僕だったのだから。
ただ、もともと自然と対峙する伝統工芸の職人さんたちを共に訪ね回ってきた同志でもある。自分たちの会社が大切にしてきたことと、仏教の根幹にある価値観との共通点は納得しやすかったのか、なるべくしてなった「ナチュラル出家」かもねと言われた。
それまで皆に厳しくあたることも増えていた僕の心中を理解しようとしてくれたのかもしれず、それもありがたかった。このとき、創業以来のジェットコースターのような日々から、もう一度原点に戻れたように感じた。