「日本人」というキャラクターを簡単に使いたくない
――アメリカのスタンダップコメディには、ジョークにしていいことと悪いことの暗黙のルールみたいなものは、共通認識としてあるんですか?
それについていうと、「アメリカでは…」と語れないくらい、コメディの世界も分断しているのを感じますね。
ジョー・ローガンという有名な、ポッドキャストの登録者数もめちゃくちゃ多いトランプ支持者のコメディアンがいて。彼はテキサスのほうにある「コメディ・マザーシップ」というコメディクラブのオーナーなんだけど、そこにはふたつの部屋があって。ひとつが「ファット・マン」、もうひとつが「リトル・ボーイ」。つまり長崎と広島に投下されたふたつの原爆の名前が付けられてるのよ。
そういうのを見ると、これはやったろう、こいつらにはガツンと言ってやろう、というモードになるんだけど、そのコメディクラブでは、トランスジェンダーの人のこともめっちゃネタにする。なんなら傷つくほうが悪いっていうくらいのスタンスで。
その一方で、ニューヨークのコメディクラブなんかだと、ポリティカルコレクトネスを気にしながら、すごくリベラルにやってる。だからアメリカのコメディも、トランプとカマラの大統領選が示すように、一筋縄では語れないんだよね。
――これまで村本さんは、ネタの中で日本社会におけるマイノリティーの存在に触れることが多かったですよね。今度はアメリカという多民族社会の中で、自身がマイノリティーな存在になった。そのことがネタ作りにどう影響していますか?
日本人がアメリカに行くと、みんな「日本人である」ということを使いたがるねん。日本とアメリカのわかりやすい違いとか、それぞれの固定観念とかをネタにする。要は「こういうのウケるでしょ」ってやつです。でも僕はそういう、自分のルーツを使ったものはなるべく削ってる。
この前、知りあいのシェフともそういう話になったんだけど、例えばキャビアとフォアグラとか、マグロにウニとか、確かに簡単にお客さんに喜ばれるけど、そういうベタなことはしたくないよねって。
笑いの取り方も、「日本人」というキャラクターを使えば手っ取り早いけど、逆にそこを削ぎ落していくと、「自分って一体何者なんだろう」っていう問いにぶつかる。言うことがなくなって、なくなって、本当にしんどくなったときに、僕はこう思う、っていう自分特有の視点が見えてきたりするもので。
だから日本にいて同じことを繰り返すことよりも、違う文化の中で、少数派として、コメディアンとして、自分が何者なのかを確認する作業、突き詰めていく作業をしていったときに、面白い芸人になれるんじゃないかなって。
取材・文/金愛香
後編に続く
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