「ヤクルトは球団と“おもてうら一体”」

それは、中畑清をリーダーとするプロ野球選手会が東京都労働委員会から労働組合としての認定を受けてから5か月後のことであった。

開幕を直前に控えた1986年4月、突然、ヤクルトの選手会がこれを脱退すると記者会見で宣言した。

三塁手としてレギュラーを張っていた角富士夫会長が「ヤクルトは球団と表裏一体のもので、集団の力を借りて交渉しなくても、われわれの求めるものは常識の線で満たされている」と脱会声明文を発表したのである。

けれど、「表裏一体(ひょうりいったい)」を「おもてうら一体」と読み上げるなど、当初から選手の意志ではなく、圧力をかけた親会社側が作成した文章ではないかと指摘されていた。いずれにせよ、12球団の足並みが切り崩されたのは、大きな痛手であった。

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西井敏次事務局長(当時)は、板挟みになった角の苦悩を今でもよく覚えている。

「角とは同期でね。初台のステーキハウスでよくしんどさを語ってましたよ」

これより、数年間、ヤクルトを除いた11球団による構成で選手会労組は運営されていった。

大きな転機になったのは、1988年、エースピッチャーとして活躍していた尾花高夫がヤクルトの選手会長に就任してからであった。中畑はこのタイミングを逃さなかった。

即座に連絡を取り、選手会労組への復帰を要請した。松岡弘の引退後、主戦投手としてスワローズのマウンドを守って来た右腕はポジティブな回答を返した。

「『必ず(選手会に)僕が戻しますから、キヨシさん、一年だけ待っててください』と言ってくれてね。あれはすごく助かった」(中畑清)

この宣言は見事に実行され、1989年にヤクルト選手会はプロ野球労組に復帰した。その後の球史を見るに、ここで尾花が立ち上がらず、脱退が常態化したままであったならば、ヤクルトにおける選手の権利主張の潮流は途絶え、古田敦也による1リーグ制への移行を阻止した2004年のスト決行も成されなかったのではないか。

当時の尾花は何を考え、組織の中でどう動いたのか? この質問に対して尾花はヤクルトスワローズというチームのカラーから語り始めた。

「まあ良く言えば、家族的なチームで、選手はオーナーにかわいがってもらうことで守られていたとは言えると思うんですけど、逆に言えば、鶴の一声で何でも決まってしまう。そういう体質であったというのは事実です」