尾花高夫をつくった「社会人時代の苦労」
若い尾花はその間、ずっと30メートル上空にいなくてはならない。煙突はめちゃくちゃ熱く、夏は脱水症状で気が遠くなりかけるが、冬などは逆に背中を寒風が突き抜けて体温調整に変調を来たした。
現場から帰社すると、電子顕微鏡に濾紙を乗せてグラム数を毎回調べて市役所に持っていく。
「一切、粉飾も改竄もしなかったですよ。それだけ真面目で危険な仕事でもあるので、朝、必ずミーティングをやるんですよ。班長が『二日酔いのやつはちゃんと申告しろ』って言うんです。万に一つも間違いがあってはいけないので。
だから、二日酔いのやつは正直に手を挙げて、『じゃあ、お前は今日は残り』となるんです。それだけ緊張していないといけない仕事でした」
尾花はその緊張から解放される間もなく、そこから練習に向かう毎日であった。しかもグラウンドでも自らに課したルールがあった。
午後7時には全体練習が終わると、その後に必ずグランドをひとりで30周するというものであった。これをこなすのに約一時間かかった。
さらに休みの日は社員寮から母校のPL学園まで走って通い、そこで後輩たち(二年生に米村明、一年生に西田真二、金石昭人ら)の練習を手伝ってまたランニングで帰ってくるということをルーティンにしていた。堺の寮から富田林のPL学園グランドは片道10キロはあったので、往復で20キロ。
黙々とこれらの日課をこなしている尾花の姿を大矢明彦のバックアップとして中出謙二捕手(後に南海)を視察に来たヤクルトのスカウト片岡宏雄が目にとめて、『これは広岡監督好みの選手だ』とドラフトにかけたのは、知られた話である。(新日鉄堺は当初、まだ会社に貢献して欲しいとプロに送ることを渋っていたが、最後は片岡の熱意に押し切られる形で円満退社となった。代わりに良い高校生がいると片岡が同社に獲得を薦めたのが、成城工業の野茂英雄であった)
えてして社業をおろそかにする社会人選手も少なくない中で、当時の尾花は24時間を目の前のタスクに向けて文字通り全力投球していた。その地道な努力により、社会常識や人と接する際の知見やふるまいが身についていったことは想像するに難くない。
労働の現場や行政とのやりとりを体験し、その上で野球への情熱を燃やしてきたかような人物がリーダーに就くと組織は前に進んで行く。(#8に続く)
取材・文/木村元彦