名作誕生の裏には、校正の神様がいた

実際、今日の文学の礎(いしずえ)を築いた人々、例えば、有島武郎や斎藤茂吉、坪内逍遙、与謝野晶子、芥川龍之介、永井荷風、佐藤春夫などは校正されていた。

正確にいうと、彼ら自身が校正されていることを高らかに公表していた。誰に校正されていたのかというと、通称「校正の神様」。彼らは神様に校正されていたのである。

神様の名前は神代種亮(こうじろたねすけ)。実は彼こそ近代文学の生みの親なのである。文学史上の最重要人物といえるのだが、調べてみると「帚葉山人(そうようさんじん)」「校字郎(こうじろう)」「加宇字呂(かうじろ)」など様々な別名を持っており、今ひとつ正体がつかめない。

神代種亮
神代種亮

『書國畸人傳』(岡野他家夫著 桃源社 昭和37年 以下同)によると、彼は明治16年(1883年)、島根県津和野町生まれ。松江師範学校を卒業して地元の学校で教鞭をとった後に上京し、海軍文庫の図書係になったという。

勤務時間外も読書に明け暮れ、大正デモクラシーの旗手である吉野作造らが結成した「明治文化研究会」にも参加する。

神代は「とりわけ文字のことに精通していて、校正の事には格別に秀でていた」そうで、出版された本を読んで間違いを見つけ、著者に手紙を送って間違いを知らせていた。著者たちの間でそれが評判になり、「その特技が識者や出版関係者の間に認められて、種々の全集や、諸作家の小説集などの校正を懇請されるようになった」らしい。

確かに芥川龍之介の『黃雀風(こうじゃくふう)』(新潮社 大正13年)や『支那游記』(改造社 大正14年)を開いてみると、その冒頭に「神代種亮校」と明記されている。こうして校正者の名前が表記されるのは今でも珍しいことで、永井荷風などは『濹東綺譚』のあとがき(「作後贅言」)で神代種亮への思いを綴っていた。

濹東綺譚は若し帚葉翁(筆者注/神代種亮のこと)が世に在るの日であったなら、わたくしは稿を脱するや否や、直(ただち)に走って、翁を千駄木町の寓居に訪(おとな)い其の閲読を煩さねばならぬものであった。

(永井荷風著『濹東綺譚』新潮文庫 平成23年 以下同)
『濹東綺譚』(1948年、岩波文庫)
『濹東綺譚』(1948年、岩波文庫)
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神代種亮は真っ先に校正してほしい人。自宅に駆けつけてでもチェックを受けたい人だったのである。

彼は文字のみならず風俗にも精通しており、小説の舞台になった界隈のことをたずねても「市中より迷宮に至る道路の地図を描き、ついで路地の出入口を記し、その分れて那辺(なへん)に至り又那辺に合するかを説明すること、掌(たなごころ)を指すが如くであった」という。

常日頃から町を観察し、人の出入りなどの記録もつけており、銀座が実は関東大震災以来、関西や九州の出身者で占められていることも彼から学んだらしい。神代は和装から洋装への変化にも敏感で、こう警告していたという。

一度崩れてしまったら、二度好くなることはないですからね。芝居でも遊芸でもそうでしょう。文章だってそうじゃないですか。勝手次第にくずしてしまったら、直そうと思ったって、もう直りはしないですよ。

校正の神様からの苦言。なんでも彼はいつも白足袋に日光下駄を履いており、「風采を一見しても直に現代人ではない事が知られる」とのこと。その存在感は浮世から離れてこの世を校正するようだったらしい。


文/髙橋秀実 サムネイル/Shutterstock.

ことばの番人
髙橋 秀実
ことばの番人
2024年9月26日発売
1,980円(税込)
四六判/224ページ
ISBN: 978-4-7976-7451-4

校正者の精緻な仕事に迫るノンフィクション。
日本最古の歴史書『古事記』で命じられた「校正」という職業。校正者は、日々、新しいことばと出合い、規範となる日本語を守っている「ことばの番人」だ。
ユーモアを忘れない著者が、校正者たちの仕事、経験、思考、エピソードなどを紹介。
「正誤ではなく違和」「著者を威嚇?」「深すぎる言海」「文字の下僕」「原点はファミコン」「すべて誤字?」「漢字の罠」「校正の神様」「誤訳で生まれる不平等」「責任の隠蔽」「AIはバカともいえる」「人体も校正」……
あまたの文献、辞書をひもとき、日本語の校正とは何かを探る。

【本文より】
文章は書くというより読まれるもの。読み手頼みの他力本願なのだ。世の中には優れた書き手などおらず、優れた校正者がいるだけではないかとさえ私は思うのである。

【目次より】
第一章 はじめに校正ありき
第二章 ただしいことば
第三章 線と面積
第四章 字を見つめる
第五章 呪文の洗礼
第六章 忘却の彼方へ
第七章 間違える宿命
第八章 悪魔の戯れ
第九章 日本国誤植憲法
第十章 校正される私たち

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