仕事は階段ではなく、
毎日食べるご飯のようなもの

――この小説には、親子関係、結婚、仕事など、普遍的なテーマが盛り込まれています。たとえば、好きなことがないと悩むミンチョル、契約社員で理不尽な思いをしてきたジョンソ、あるいは「働かない権利」をテーマにした読書会の場面を通して、「仕事」について多様な視点を提示しています。〈仕事って階段のようなものだと思っていたんです。てっぺんにたどり着くために上っていく階段。でも実際には、ご飯のようなものだった。毎日食べるご飯。自分の身体と心と精神と魂に影響を与えるご飯〉という言葉が印象に残りました。仕事をどのように捉えていらっしゃいますか。

 仕事は、一日のうち、もっとも多くの時間を費やすものです。そういうものであるならば、できるだけいい時間の過ごし方をしたいと私は思いますが、韓国社会では、いい時間を過ごしているかを考えるヒマがないくらい、追い立てられている雰囲気があります。なぜこの仕事をしているのか、本当に好きな仕事をしているのかを自分に問いかける隙がないくらい、がむしゃらに走り続けている感じです。

 なぜ走り続けるかといえば、成功のため、競争に勝つためですが、そうしているうちに体を壊したり、メンタルを壊してしまう人がいるんです。『ヒュナム洞』には、私が考える理想の仕事の在り方を描きました。いまの韓国社会では正反対の状況が見られるからこそ、私はこのような小説を書いたのだと思います。

――母と娘、母と息子……ヨンジュもバリスタのミンジュンも、親との関係に悩んでいます。日本でも家族は一つのテーマですが、韓国でもそうでしょうか?

 韓国の社会には「家族主義」が根強く存在していて、子どもがよりよい道を歩むために、親が献身して子どもを育てる文化があります。子どもにしてみたら、親は時間やお金をはじめ、多くのものを自分のために犠牲にしてくれています。そういう関係性のなかではどうしても、子は親の期待に応えなければいけないと思うようになります。自分の人生を生きるための声を、親に対して上げにくくなるのです。

 ですが私の思う理想的な家族関係はそういうものではなく、「あなたと出会えてよかった」と思えるような関係です。家族も数ある人間関係の一つと捉えてある程度の距離を置き、一緒にいい時間を過ごせてよかった、そう思えるような爽やかな関係を望ましいと思っています。

――この小説には、ファンさんのそうした考えが投影されていると思います。この小説が多くの読者を獲得したということは、韓国も変わりつつあるということでしょうか?

 この小説を読んで自分の親子関係が変わった、という話は聞いていませんが、深く共感したと言ってくださる人が韓国に多いことに驚きました。というのは、これまでお話ししてきたとおり、この小説には韓国のスタイルとは異なる物語が書かれているからです。本当は自分もこうしたかったとか、自分も同じように感じていたという読者が多いことに、びっくりしています。

――友人関係についていえば、仕事が終わったヨンジュの家に女友だちが集まり、ビールやつまみ片手に、寝転びながらお喋りするシーン、とても好きです。大事な時期の恋愛については聞きすぎなかったりと、距離感も絶妙です。

 私のエッセイ集に『このくらいの距離がちょうどいい』というタイトルの作品があります。ほどよい距離感の関係を、私は好ましいと思っているんですね。もちろん濃密で密接な関係が必要なときもあります。ただ、そればかりだと、互いに干渉しすぎて疲れてしまったり、自分が本来やるべきことに時間がとれなかったりします。私がいいなと思うのは、親しいなかにも礼儀のあるような、気安くもあり気遣いもあるような、そういったゆるやかで優しい人間関係です。

いい本、いい人、いい人生とは何なのか

――ヒュナム洞書店で行われるイベント─作家のトークショー、読書会、コーヒーイベント、たわしイベント、映画上映会など――は、参加したくなるものばかりでした。〈何が書店を存続させるのか?〉という章もあり、書店経営の難しさと可能性について考えさせられます。

 書店を続けていくためには、まずはお客さんに書店に来てもらわなければいけません。来てもらったお客さんに、本を買ってもらわなければいけません。そうするための手段として、さまざまなイベントを考えていきました。読者のなかには、ヒュナム洞書店に、近所のコミュニティのようなイメージを持たれる方がいるようです。コーヒーを飲んだり、イベントに参加したりする場所でもあるので、そのように感じられたのだと思いますが、私自身にコミュニティを書こうという意図があったのではなく、経済的な理由から要請される書店の姿を書いたという感じです。書店に関する本をたくさん読むことで、そうした現実を学びました。

――本とコーヒーは日本でも〝鉄板〟の組み合わせです。栽培地の標高による豆の香りや味の違いなど、コーヒー好きにはたまらない描写もたくさんあります。コーヒーはお好きですか?

 実はそうでもなく……(笑)、本で勉強して書きました。この組み合わせを喜んでくださる方が多くてうれしいです。

――ヨンジュにとって大きな存在となる兼業作家・スンウとの緊張感あるやり取りは、文章論、作家論としても読みごたえがありました。〈何かを読んだり書いたりするときに一番注意を払うことは何ですか〉という問いに対して、スンウは〈作家の声〉と答えます。声とは具体的に何でしょうか?

 作家になりたくて文章を書き始めたとき、どうしたらうまく書けるだろうかと悩みました。好きな作家のような文章を私も書きたいと思うんです。でもどれだけ真似をしても、自分には書けないと気付かされました。それは、能力が及ばないというより、その作家と私は違う人間だからです。そうした人間としての違いを表す言葉として「声」を使っています。声は、その人そのものが持っている固有のもの。いま作家になってみると、声も大切ですが、その声をのせる文章も声と同じくらい大切だと思うようになりました。

――ヨンジュがInstagramで紹介する本や、お客さんに薦める本をはじめ、この小説には、20を超える本、映画、ドラマが登場します。この本自体が作品案内にもなっていますが、どのように選ばれましたか?

 自分の好きな本を厳選したと思われている方がけっこういらっしゃるのですが、そうではなく、登場人物や状況に似合う作品を入れていきました。

――ファンさんはどのような本がお好きですか?

 私自身は小説が好きです。一冊を選ぶのは本当に難しいのですが……、最近読んだ本のなかでは、昨年の夏ごろに読んだ『夜のふたりの魂』(ケント・ハルフ著)がとてもよかったです。こんな小説が書けたらどんなにうれしいだろうかと思いました。この本にも出てきます。

――物語の終盤、スンウがヨンジュに差し出す本ですね。この小説の登場人物たちは、自分にとってのいい本、いい人、いい人生とは何かを考え、行動し、少しずつ変わっていきます。作品中にしばしば登場する「いい」という言葉に込めた思いや意味を、最後に教えてください。

 いま感じているのは、いい人生とは、いい歳の取り方をしている人生であり、自分が自分でいることがラクになる人生だということです。自分と一緒にいることがラクになる人生とも言えるかもしれません。そのためには、さまざまな試行錯誤が必要だと思います。この本に書いたように休んでみたり、これまでの態度を変えてみたり、考え方を変えてみたり、本を読んで勉強してみたり、趣味を持ってみたりと、そうした小さな経験を積み重ねていくことで、自分が自分として過ごすことがラクになれたら、それはとてもいい人生なのではないかと思っています。

ようこそ、ヒュナム洞書店へ
著者:ファン・ボルム 訳者:牧野 美加
2023年9月26日発売
2,640円(税込)
四六判/368ページ
ISBN: 978-4-08-773524-6

【2024年本屋大賞翻訳小説部門第1位】

完璧な人生なんてないけれど、「これでいい」と思える今日はある。
ネットで人気を博し韓国で累計25万部(2023年9月26日現在)を突破した、心温まるベストセラー小説!

ソウル市内の住宅街にできた「ヒュナム洞書店」。会社を辞めたヨンジュは、追いつめられたかのようにその店を立ち上げた。書店にやってくるのは、就活に失敗したアルバイトのバリスタ・ミンジュン、夫の愚痴をこぼすコーヒー業者のジミ、無気力な高校生ミンチョルとその母ミンチョルオンマ、ネットでブログが炎上した作家のスンウ……。
それぞれに悩みを抱えたふつうの人々が、今日もヒュナム洞書店で出会う。

新米女性書店主と店に集う人々の、本とささやかな毎日を描く。

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