友だちとは、きょうだいよりも
親しくなれる存在ですね。
椎名誠さんが“失踪への衝動”を携えながらコロナ禍の生活日録を綴った『失踪願望。 コロナふらふら格闘編』(集英社刊)が刊行されたのは二〇二二年十一月。それに先だつ十月十三日、椎名さんと半世紀近く歩みを共にし、デビュー以来の椎名さんの本をほとんど読んできた目黒考二さんが聞き手となって同書について椎名さんにインタビューしていた(『kotoba』二〇二三年冬号収載「ぼくの昏く静かな失踪願望について」)。
刊行の歓びも束の間、十二月十九日、「本の雑誌社」の浜本茂社長から、目黒さんが肺ガンで入院、すでにステージ四で余命一カ月だという電話が入った。呆然とする椎名さんだが、電話からちょうど一カ月後の二三年一月十九日、目黒さんは亡くなられた。
この度刊行された『続 失踪願望。 さらば友よ編』には、サブタイトルにあるように、目黒さんを失った椎名さんの哀しみが通奏低音のように流れている。
聞き手・構成=増子信一/撮影=山口真由子
荒っぽい青春時代
―― 今度の本には前作の続きとして、二〇二二年七月から二三年六月までの日録が収められていますが、「さらば友よ!」という書き下ろしのエッセイも併録されていて、「辛いことが多い一年だった。親友の目黒考二が亡くなってしまった」という一行から始まります。
本当に親しい友人の死というのは初めてだったような気がします。困りました、対処の仕方がね。
―― このエッセイには、椎名さんが二十歳の頃に生死に関わる自動車事故を起こして、その後、箱根に“失踪”するエピソードが書かれています。
精神的に一番過敏な頃に起きた事故と、それにつながる戸惑いの気持ちみたいなものがあったんですね。当時はまだ自分の中でいろんな可能性があると思っていたし、なんだか右往左往していた。まあ、面倒くさい頃の話なんだけど、どんどん突き進んでいこうという気持ちのほうが強かったかなあ。
―― 身許を偽って箱根の酒屋さんで働くわけですが、結局一カ月ぐらいで家に戻ってしまう。その辺の理由は書かれていませんが?
負けた、って感じだね。あんまり考えたくなかったんでしょう。他人事みたいにいいますけど、そんなもんでしたよ。自分の精神力の弱さに気がつかされて、へとへとになっていた。あの頃、ここには書かなかったけど、別の悩みもいっぱいあって……。
いま、新潮社の「波」に「こんな友だちがいた」という連載を書いているんだけど、そこで小学校からの親友のクリハラ君(仮名)のことを書いたんです。クリハラ君はぼくと体型が同じでがっしりしていて、中学では、彼はバスケで、ぼくは陸上やってたんだけど、毎日部活が終わった後に、二人で町の中を一緒に一時間ぐらい走っていた。二人とも体を鍛えることがすごく好きで、走りながら、「おまえ、将来どこの高校狙うんだ?」みたいな話をした。
ぼくもクリハラ君もボクシングをやりたかったので、当時ボクシング部が強かった習志野高校に行きたかったんだけど、彼は合格してぼくは落ちちゃったんです。そこがぼくの転機になるんですね。ぼくが入った市立千葉高校にはボクシング部がなくて、野球部と柔道部に誘われたけど、先輩がたくさんいる柔道部のほうに入ったんですよ。
一方のクリハラ君は、習志野高校のボクシング部でめきめきと力を発揮して、ライト級の全国高校チャンピオンになった。さらに、ちょうど二十歳のときに、東京オリンピックのライトウェルター級の日本代表になったんですよ。彼はサウスポーで、小学校のときにケンカしたのが最初だったんですけど、一発でやられちゃった。将来オリンピック・ボクサーになるようなやつにやられるならしょうがないけどね。
まあ、あの頃は日本中が荒れてた感じで、ぼくも否応なしにけっこう荒っぽい青春時代を過ごした。たとえば、総武線の電車の中でケンカしたことがある。相手は習高のボクシング部で、そいつがいきなりぼくの襟首をつかんで自分のほうに引き寄せる。なんとも屈辱的で、ぼくは殴りかかったんだけど、相手はボクサーだから簡単に避けられて、勢い余ったぼくの手がガラスに当たり、割れてしまった。それを見た周りの人がみんな逃げた──ということもあった。なんか、ねじくれてたんですね。