「語れない」ということが大きなテーマ

――その秋子の日記もすごく面白かったです。

 当時の日本の外務省の役人の娘で、比較的恵まれた環境にいる女の子をイメージしていました。そこに全然違うバックグラウンドを持った白川さんという転校生がやってきて交流を深めることは比較的早い段階で決めていた気がします。

――秋子は白川さんから本を借りたりして、親しくなるんですよね。漱石の『こころ』や『坊っちゃん』、雑誌の「少女の友」や「講談俱楽部」、立原道造の詩集など具体名がいろいろ出てきます。

 当時の女学生の嗜好として立原道造は微妙なところかもしれません。僕が好きだから書いちゃったんですけれど(笑)。日記は苦労しました。書き始めた時は手元に資料がなくて、今と違う時代を生きた、しかも十五歳の女学生の文章を想像していくしかなくて。

 ただ、最近になって京都の友人が、一九一八年から綴られた女学生の日記を出版したんです。その友人の大伯母さんの日記が京都の徳正寺の蔵から見つかったんだそうです(『ためさるる日 井上正子日記 1918–1922』法藏館)。出版前に日記を見せていただく機会がありました。それを読んで、当時の女学校では生徒に日記を書かせて、先生が添削するシステムがあったと知ったんですよ。当然先生に見せても問題ないことしか書けないわけですが、ちょっと逸脱した部分もあって、そのバランス感覚が面白いなと思いました。秋子が日記を書いたのは一九四一年ですからかなり時代背景は違いますが、先生に提出するために日記を書いているというアイデアはそこからきました。

――それが重要なんですよね。じつは秋子の日記には、秘密が隠されている。

 やはり「語れない」ということはすごく大きなテーマになっています。先生に見せる日記では語れない、ということだけでなく、現代にも通じることですが、家父長制の抑圧で女性が語れない、という問題ですね。語られていないことに近づいていく、ということもテーマのひとつとしてありました。

――日記には数年前に台湾で大地震が起きたことなど、当時の出来事などがさりげなく含まれているのも興味深かったです。

 一応、日記が書かれた期間の台湾の新聞に目を通して、当時の事件などは確認しました。

 ただ、作中にも書きましたが、一九四一年になると新聞も事件やゴシップ報道は減っていくんです。日記が書かれた時期を一九四一年十二月以降にすると新聞も戦争報道だけになるし、そもそも日記を書いていられるような日常はなくなってしまう。それで日記が書かれたのは一九四一年の秋という設定になりました。

――現代パートは二〇一三年の設定ですよね。それも接続の問題ですか。

 それもありますが、日本の中での排外主義が強くなってきたのが二〇一〇年頃からだったことが関係しています。それと、サチコたちはスマホを使っていますが、二〇一三年あたりからスマホの使われ方が広がった感じがあったので。

植民地支配の歴史を知ること

――読み進めるうちに、台湾の歴史や民族のこともいろいろ見えてきます。

 そうですね。作中、サチコが親しくしている同僚のおばあさんやひいおばあさんが出てきて少しだけファミリーヒストリーが語られますが、そうした台湾の戦後史も大きなテーマですね。
 やはり日本では、小説作品の中で植民地支配の歴史が描かれることが少ない印象があります。でもアジアの近隣諸国にとっては植民地支配されたということは、かなり大きな歴史なわけです。そういうことをどのように書くのかはすごく意識しています。

――一九四八年の朝鮮の済州島四・三事件が言及される箇所もありますよね。朝鮮半島の歴史も、触れておきたかったことなんですね。

 はい。日本では一九四五年の敗戦で全部終わったイメージがあるけれど、旧植民地では終わったどころか、その後もっとひどいことが起きている。それは間違いなく知ったほうがいい歴史だと思います。

――それにしても、終盤にまさかサチコたちがナポリまで行くとは。

 書きたいものを書くというのが基本だと思うので、そのあたりは好きに書きました。僕がイタリア好きというのもあるんですけれど(笑)、主人公たちがそういう環境に行くこと自体の楽しさもあるだろう、と。

――サチコが空港を出た後で勧められて昼食を食べたお店も実際にあるんですか。

 はい。あのポルケッタ屋さんはまだあると思います(笑)。

――イタリアでクライマックスを迎えるのかと思ったら、そこからがまた怒濤の展開で。その中で、サチコの内面や、最初は距離のあったジュリとの関係が変化していくのも読みどころでした。

 不思議なもので、自分で書いているのに二人の距離が生き物のように変わっていく感じでした。なのでそれは流れに任せました。

 サチコに関しては、周りの人たちからすると一体どういうジェンダーアイデンティティを持っていて、セクシュアルオリエンテーションはどうなっているのかがあまり分からないと思います。それは本人も分かっていないということなんですね。最初のうちに彼女はレズビアンであるとかバイセクシュアルであるといった位置づけをすれば物語はシンプルにはなるんですが、今回はサチコ自体の分からなさを含めて書こうと思いました。

――そうしたことも含め、非常に濃密な物語になりましたね。

 一人称で書くには複雑な話だったかなと思っています。サラ・パレツキーのミステリのような翻訳文体の三人称寄りの一人称にしたんですが、三人称にしたほうがもっと書きやすかった気がします。

――デビュー作も今作も海外が舞台ですが、そのほうが書きやすいのですか。

 日本を舞台にしたほうが書きやすいと思うんですよね(笑)。今度「小説すばる」八月号に『日月潭の朱い花』のスピンオフ短篇が載るんですが、富山から始まって飯能に行く話です。ジュリが主人公で、『日月潭の朱い花』の後の話です。そっちは三人称で、書きやすかったです(笑)。

――今後、長篇ではどんなものを書こうと思っていますか。

 打ち合わせはこれからなんですが、次は北海道の話を書こうと思っています。

日月潭の朱い花
青波 杏
2024年7月5日発売
2,200円(税込)
四六判/320ページ
ISBN: 978-4-08-771867-6

【第35回小説すばる新人賞受賞後第一作】

デビュー作『楊花の歌』
 Apple Books 2023年ベストデビュー作 (歴史フィクション)
 第12回歴史時代作家協会賞新人賞部門候補
 第3回本屋が選ぶ大人の恋愛小説大賞候補

【東山彰良さん推薦!】
本当の自分への逃走はこんなにも輝かしい
            
25歳のサチコは、不条理な派遣労働から逃れるように亜熱帯の台湾に渡り、偶然再会した在日コリアンのジュリと、台北の迪化街で暮らしていた。
誕生日の晩、サチコが古物商の革のトランクのなかに日本統治時代の台湾を生きた女学生の日記をみつけたことから、ふたりの生活は一変する。
普段は引きこもっていたジュリだったが、その日記を書いた女学生の行方調査に夢中になり、やがて大きな謎につきあたった。
それは、70年以上前、深山に囲まれた日月潭という湖で起こった、ある少女の失踪事件だった。
遠い昔に姿を消した少女を探す旅は、いつしかふたりのアイデンティティを求める旅につながってゆく――。

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