自分と関係がない情報、という「ノイズ」
興味深いのが、『映画を早送りで観る人たち』と同年に出版された『ファスト教養』である。同書は「仕事に役立つ教養」という切り口で教養を速く手軽に伝える人々の存在を「ファスト教養」という言葉で定義し、その発生は新自由主義的思想の台頭と因果関係があると説明する。
ファスト教養は、まさに〈ノイズを除去した情報〉としての教養のことである。たとえば起業家・投資家の田端信太郎は「えらい人と話を合わせるツール」として教養が使えるという旨を述べていることを、著者のレジーは批判的に参照する。
しかし一方で興味深いのが、田端が教養として「過去のポップカルチャーの知識」を挙げる点である。
採用面接を受けに来たある若者が、音楽ユニットのフリッパーズ・ギターのことを知っていた。フリッパーズ・ギターといえば、少し昔に流行った音楽で、若者にとってはもはや「教養」だろう。
しかし若者がたまたまフリッパーズ・ギターという過去のポップカルチャーについて明るく話が盛り上がったことに好感を持ち、採用を決めた。
要は、若者は学業や専門的なスキルではなく過去のポップカルチャーという教養で、採用を手に入れたのだ。この件から田端は「一般教養が重要」という教訓を導く。
これを「一般教養」というのか「人間力」というのかわかりませんが、ビジネスの場面では案外そういうものがものを言います。(『これからの会社員の教科書―社内外のあらゆる人から今すぐ評価されるプロの仕事マインド71』)
『ファスト教養』はこの田端の発言をまさにファスト教養的だと説明する。昔の作家やミュージシャンに関する知識があることが「一般教養」とされていることもそもそもファスト教養的だし、さらにそんな「一般教養」を知っていることが面接で役に立つという言説もまたファスト教養的である、ということだ。
しかしここで田端が挙げる「教養」が現代で流行していない=現代の流行の文脈をさかのぼったところにある情報であることに注目したい。
フリッパーズ・ギターのどこが「教養」らしさを帯びているのかと言えば、「過去」というノイズが存在しているにもかかわらず、その情報にたどり着いたところにある。
つまり面接を受けた若者と、フリッパーズ・ギターの間には、「(自分の時代とは関係のない)過去の流行」というノイズ性が横たわっている。彼にとってフリッパーズ・ギターは、時間軸からすると、今の自分から遠く離れた場所にあったのだろう。しかしその遠く離れた場所にある知識に、彼は届いた。
もしかすると、フリッパーズ・ギターの知識を得ようとした動機は、「いつかおじさん世代と喋るときに役立つかもしれないから」かもしれない。しかし動機がなんであれ、若者はノイズ性(=今ではなく過去に流行した音楽であること)の含まれた知識にたどり着いた。
彼はフリッパーズ・ギターを通して、いささか大げさに言えば、他者の文脈─おじさん世代に流行した音楽という文脈─に触れたのだ。
これが教養でなくて、何だろう。今回の例はきわめて示唆的なエピソードではないだろうか。教養とは、本質的には、自分から離れたところにあるものに触れることなのである。
それは明日の自分に役立つ情報ではない。明日話す他者とのコミュニケーションに役立つ情報ではない。たしかに自分が生きていなかった時代の文脈を知ることは、今の自分には関係がないように思えるかもしれない。
しかし自分から離れた存在に触れることを、私たちは本当にやめられるのだろうか?
私たちは、他者の文脈に触れながら、生きざるをえないのではないのか。
つまり、私たちはノイズ性を完全に除去した情報だけで生きるなんて─無理なのではないだろうか。
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