本を早送りで読む人たち?
2020年代初頭現在、「読書法」というジャンルの書籍において「読書を娯楽として楽しむことよりも、情報処理スキルを上げることが求められている」という現実がある。
そう、もはや数少なくなってしまった読書する人々のなかでも、読書を「娯楽」ではなく処理すべき「情報」として捉えている人の存在感が増してきているのだ。
たしかに私が書店に行っても、速読本はいつでも人気で、「東大」や「ハーバード大学」を冠した読書術本が棚に並び、ビジネスに「使える」読書術が注目されている。「速読法」や「仕事に役立つ読書法」をはじめとして、速く効率の良い情報処理技術が読書術として求められている。
読書ではなく映画鑑賞について、「情報」として楽しむ人が増えていると指摘したのは稲田豊史『映画を早送りで観る人たち―ファスト映画・ネタバレ─コンテンツ消費の現在形』だった。
稲田は現代人の映画鑑賞について、以下のような区分が存在すると述べる。
芸術─鑑賞物─鑑賞モード
娯楽─消費物─情報収集モード
このような区分が人々のなかに存在しており、だからこそ「観る」と「知る」は違う体験である、早送りで映画を見る人たちの目的は「観る」ことではなく「知る」ことなのだと稲田は説く。
稲田の思想に沿わせるとするならば、読書もまた同様に以下のような区分が可能になる。
①読書─ノイズ込みの知を得る
②情報─ノイズ抜きの知を得る
(※ノイズ=歴史や他作品の文脈・想定していない展開)
小説などのフィクションを「知」とまとめるのは抵抗がある人もいるかもしれない。しかし本稿では、メディアに掲載されている内容すべてを「知」と呼ぶことにする。というのも本稿は、「勉強・学問」と「娯楽としての本・漫画」を区別していないからだ。
だとすれば近年増えている「速読法」や「仕事に役立つ読書法」が示す「読書」とは、やはり後者の②「情報」をいかに得るか、という点に集約される。情報を得るには、速く、役立つほうがいいからだ。そして労働にとって、②「情報」は必要である。しかし労働にとって、①「読書」は必要がない。
市場という波を乗りこなすのに、ノイズは邪魔になる。アンコントローラブルなノイズなんて、働いている人にとっては、邪魔でしかない。……だとすれば、読書は今後ノイズとされていくしかないのだろうか?