ダンスはOKだが、歌いこなせない山本リンダ
だが、問題が起こる。
山本リンダの舌ったらずな歌い方だと、言葉がリズムに乗らないのだ。
強力なサンバのリズムに、速いテンポの日本語なので、それまでの歌い方では歌いこなせない。相当な時間のレッスンをしても上達せず、一向に進歩がないまま行き詰った。
一方で、大胆なヘソ出しルックの衣装や、南米のサンバのリズムに乗せて生命力に満ちたダイナミックな踊りが見えてきた。都倉はそこで極端に母音を強調して歌わせてみた。
“うわさをしんじちゃいけないよ”ではなく、“うぅ、わぁ、さぁ、をぅ、しぃ、ん、じぃ、ちゃぁ”にする。日本語を英語風に発音させた。
「途端にノリが良くなった。彼女もそれを感じたらしく、歌全体が生き生きとしてきた」
レコーディングが終わると、誰からともなくもっとインパクトのあるタイトルでいこうということになった。
現場で雰囲気を共有していた阿久悠も、そのときのことをこう述懐している。
「レコーディングが終わって考えが変わった。出来上がった楽曲の面白さ、歌唱のユニークに比べて、いかにもタイトルが平凡に思え、詞の最後の行の部分の言葉をそのままタイトルに使った。これが運命を変えた」
レコード発売、予期しなかった好反応
山本リンダのカムバックに関わっていた関係者たちは、当然大人の男性をターゲットに想定してプロモーションを行った。
ところが実際にレコードが発売になると、レコード店の前に行列を作っていたのは子どもたちだった。母親に連れられた就学前の小さな女の子たちもいた。
激しいリズムに乗ってテレビに登場した山本リンダに、子どもたちは言葉や理屈ではなく、視覚と身体で反応したのだ。そしてアクションをマネてすぐに覚えてしまった。
ヘソ出しルックで踊りながら歌う山本リンダは、子どもたちにとって、架空の物語の主人公か妖精のようなものだったのかもしれない。当初に意図していたターゲットの若い男性だけでなく、それとまったく異なる子どもたちにも支持された。
ここから日本の社会で、全く新しい音楽の受容が始まったといえる。
そういう意味で『どうにもとまらない』は、歌謡曲を楽しむ層を幼稚園児や小中学生にまで拡張した。これは後年に巻き起こるピンク・レディー現象の先駆けである。
そして”時代を捉えるアンテナを持った阿久悠や都倉俊一が、ヒット曲を生み出すソングライターに留まらず、時代を動かすプロデューサーとなっていく。
文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル画像/1972年6月5日発売『どうにもとまらない』(CANYON)
参考・引用文献
都倉俊一『あの時、マイソングユアソング』(新潮社)
阿久悠『歌謡曲の時代:歌もよう人もよう』(新潮社)