DVDか、それともエロ本か

次は、熊谷真士のブログ『もはや日記とかそういう次元ではない』内の記事「精液検査をしにいったら、射精をする部屋でパニックに陥ったのでレポートします。」から。

精液検査用クリニックを訪れた熊谷真士が、精液採取の部屋でDVDで採取するのか、エロ本で採取するのか迷った末に出した文章です。

感情が溢れた文章には狂気が宿る…星野源が闘病で、さくらももこが祖父の死に面して綴った文章に映る「書くしかない」想いの強烈な魅力とは_2

時代は流れ、街はうつろい、社会は変容する。それでもエロ本の持つ唯一無二のエロ本性というものは決してブレることなく、ただそこに存在し続ける。それは行く川の中で流れに逆らい続ける岩場のようであり、その普遍性は美しい数式に酷似している。ページをめくるたび掻き立てられるノスタルジーに圧倒され、僕は息を飲んだ。エロ本というのは決してAVの下位互換ではない。ふと辿り着いたページ。大きめのフォントで記された文字列が僕の目に飛び込む。「ロリータ人妻による絶叫は、まさにダイナソー」。意味が全く分からない。


よし、エロ本でヌこう。僕は決意した  


正確に言うと、エロ本でヌくのではない。エロ本の先にある、「普遍性」でヌくのだ。普遍性をおかずに出来るチャンスはそうない。  

(もはや日記とかそういう次元ではない「精液検査をしにいったら、射精をする部屋でパニックに陥ったのでレポートします。」より)

 下品極まりない言葉の中に突然現れる「それは行く川の中で流れに逆らい続ける岩場のようであり、その普遍性は美しい数式に酷似している」という美しい一文。この一文によって、お下劣ブログが一気に「文学」になる。

熊谷真士の底の見えない変態性と、確かな知性が感じ取れる美しさすら感じさせる文章です。