なぜ、なおひかれる人々がいるのか

だが、騙されたとしても、どこかでそれに気づくわけで、それでも入信していくにあたっては、入信する側に何らかの理由があるはずである。

その理由を考えるには、二つの事柄に着目する必要がある。

一つは、その人間のおかれた状況である。

もう一つは、出会いである。

この二つの事柄が重なることで、人は、その集団にはまっていく。

まずは状況である。

人はいつも幸福な状態にあるとは限らない。不運に見舞われることもあり、不幸のどん底に突き落とされることだってある。

しかし、それほどの不幸ではなくても、孤独に襲われることがある。この孤独が、人を宗教へと導く決定的な要素になりやすい。

戦後に拡大した新宗教の場合、創価学会や立正佼成会ということになるが、まさに孤独が入会のきっかけになった。こうした教団が伸びたのは1950年代半ばからの高度経済成長の時代で、地方から都市に労働力として出てきた人間たちが、そのターゲットになった。

彼らは小卒や中卒で、大企業に勤められないのはもちろん、中小企業でさえ就職できず、零細企業や町工場あるいは商店に勤めるしかなかった。そうした職場には労働組合もなかった。

仕事は厳しいわりに賃金は安く、倒産や解雇も珍しくなかった。彼らは、地方にいたときには、地域共同体のなかにしっかりと組み込まれていたが、都市に出てきたばかりの段階では、そこからは切り離されてしまい、孤独な状況にあった。新宗教は、そうした境遇にある人々に手を差し伸べることで信者を増やしたのである。

私が旧統一教会のホームを訪れたその日、帰りがけに、ホームのメンバーからカレーライスをご馳走になった。カレーライスというのは、旧統一教会において新しい仲間を増やすための手段の定番らしいのだが、日頃、一人暮らしで仲間もいない人間であれば、それだけで旧統一教会にひかれていく。後日また訪れたりするのだ。

旧統一教会、エホバ…なぜ世間にこれだけ叩かれてもなお、惹かれる信者がいるのか……そのヒントは“カレーライス”にあった_2

カルトと言うと、恐ろしい集団のイメージが強い。けれども、現実に存在する集団は、新しく入ってくる人間に対してはとくに優しく接してくる。それで孤独を癒される人間はいくらでもいる。孤独に子育てをしている女性も、そうなりやすい。

カルトの恐ろしさばかりが強調されると、言われていたのとは違う集団の姿に接して、世間の見方は間違っているとさえ思うようになる。強調がかえって逆効果にもなってしまう。

カルトの側も、それを想定し、積極的に出会いの機会を用意する。それが勧誘であり、布教である。いくら孤独を感じていても、そうした人間は積極的に出会いの場を求めたりはしない。けれども、誘われると、優しくしてくれる分、それに乗ってしまうのだ。

出会った当初は、その集団の教えや活動の方法など知らない。説明を受けても違和感しか持たない場合もある。だが、誘う側は熱心で、集団に入ったことのメリットを熱を込めて語る。そうなると、それにほだされ、集団から離れられなくなる。

信者になっても、誰もが全面的に信仰を受け入れているとは限らない。さまざまな疑問を感じているだけではなく、集団の嫌な面を見せつけられることだってある。それでも、どこか一点でも魅力を感じていると、集団との関係をなかなか切ることができないのだ。

いったん集団のメンバーになってしまえば、そこでさまざまな人間と出会い、人間関係が結ばれる。集団をやめてしまえば、そうした人間関係をすべて失うことになる。

その人間がまだ若ければ、別の所で新しい人間関係を結ぶこともできるが、年齢を重ねていれば、それは難しくなる。そうなると、たとえ教えや組織のあり方に疑問を感じるようになっていたとしても、容易には離れられなくなるのである。