「うれしくて楽譜を神棚にささげ、それこそ一日中歌っていた」
曲名は『恋する季節』。
作詞が麻生たかし、編曲は高田弘、そして作曲を手掛けたのが筒美京平だった。1968年にいしだあゆみの『ブルーライト・ヨコハマ』が大ヒットしたのを機に、筒美京平は歌謡曲の第一線で活躍する、最も勢いのあるヒットメーカーになっていた。
特に1971年に尾崎紀世彦が歌って大ヒットした『また逢う日まで』(作詞/阿久悠、作曲/筒美京平)は、ロックバンドの一員としてドラムを叩いていた木本少年にとって、歌謡曲のイメージを一変させた作品だった。
「うれしくて楽譜を神棚にささげ、それこそ一日中歌っていた。部屋の中より響きが良いので、マンションの階段で大声で歌っていたら、あちこちの部屋のドアが開き、『バカヤロー、メシがまずくなる!』と怒鳴られた。
仕方ないから、屋上で練習を繰り返したが、響かないからつい大声になる。気がつくと、のどから血が出ていた。でも、メロディーは最高だったし、ヒットすることを祈りながら毎日歌い続けた」
しかし、12月の半ばに譜面をもらったのに、1月が過ぎてもレコーディングの日が決まらなかった。
その頃の不安な思いが、著書『誰も知らなかった西城秀樹。』(青志社)にはこのように記されていた。
「だから本当にレコーディングされるとわかったときは、もう天にものぼるような気持だった。1回目はあがってNG。OKが出たときも、『もう一度、歌わせてください』といって歌った」
その後、雑誌の公募で芸名が「西城秀樹」に決まり、キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」になった。
こうして1972年3月25日。念願のデビューシングル『恋する季節』が、日本ビクターのRCAレーベルからリリースされた。