マスコミからバッシング、まったく理解をえられなかった低迷期
ところがスターになったものの、ブームは1年ほどで沈静化してしまう。同性愛者であることを隠さなかったためにバッシングに遭い、その後はマスコミから締め出された状態になった。
『メケ・メケ』で成功する前からの知り合いだった中村八大は、丸山明宏が美貌を看板にして売り出したことに不安を感じたという。
「彼の服装や独特の言行から人々に与えた印象や、彼が意識してとった商品的ポーズは、彼が本来持っている強い音楽への愛情、又心から歌を表現出来るえらばれた歌手だと言う事を、スポイルしてしまったと思うのです。率直に云って私は、もう彼の歌はだめになる……と思いました」
しかし、もう少しで忘れ去られるところだった丸山は、長い低迷期間中に自分の心の底にある音楽を見つめ直していた。そして逆境の中で、「本当の歌を探すため」に自分でテーマを見つけて、作詞作曲するという道を選んでいた。
今でも主要なレパートリーとなっている『うす紫』『金色の星』『ヨイトマケの唄』『ふるさとの空の下』などの作品を、コツコツと書き上げていたのだ。こうした活動は当時の聴衆からも芸能界からもまったく理解を得られなかった。
6年の雌伏期間を経た丸山明宏が、数十曲もの作品を携えて中村八大のもとを訪ねたのは、1963年4月のことだ。