全米チャート24週連続1位獲得とミュージシャンとしての決心
そしてついにその時がやって来る。一部のヒップな若者たちから支持されていたプリンスは、1984年の『Purple Rain』で世界の頂点に立ったのだ。
革新的な『When Doves Cry』をはじめ、ギタリストとしての類稀な才能が聴こえる『Let's Go Crazy』や大バラードのタイトル曲などが厳選され、ヒットチャートで24週連続ナンバー1を独走して世界中でビッグセールスを樹立。
自伝的要素をたっぷり盛り込んだ同名の初主演映画も公開され、こちらも大ヒット。真のスーパースター誕生の瞬間までを描いたこの物語は、現実のプリンスと見事にシンクロしていた。
また、この時期は同じ黒人スターとして、何かとマイケル・ジャクソンと比較された。それはまるで60年代の優等生ビートルズと不良ストーンズのような位置づけだった。
マイケルにはクインシー・ジョーンズというパートナーがいるが、セルフ・プロデュースのプリンスにはいない。マイケルは寡作家だが、プリンスは多作家。マイケルには本当の兄弟のジャクソンズがいるが、プリンスはザ・タイム、アプロニア6、シーラ・Eといった音楽ファミリーを築く。
このころ、アメリカのスーパースターが一堂に会してチャリティーソング『We are the World』を録音。実はプリンスはマイケルと並んで歌うはずだったが、実現には至らなかった。マイケルが作ったこの曲は、もちろんクインシーがプロデュースすることになっていた。
『Purple Rain』のリリースから10か月後。新作『Around the World in a Day』が突如届けられた。
普通なら大きな成功に酔いしれて数年休養したり、約束されたアルバムをさらに売るためのツアーに明け暮れるだろう。
しかし、プリンスは違った。成功の収益で自らのレーベル「ペイズリー・パーク」や同名のスタジオを設立し、「同じようなアルバムは二度と作りたくない」という美学のもと、ワーカホリックとも揶揄される彼の本当のアーティスト人生はここから始まっていくのだ。
それはプリンスが“エンターテイナーではなくミュージシャン”であろうと決心した証だった。