正義の仮面をつけた嫉妬心
これまでの議論で明らかになったことを思い起こしておこう。嫉妬はきわめて恥ずべき感情であることから、他人に知られたくないし、さらには自分でそれを認めることさえ苦痛である。したがって、嫉妬はしばしば自らを偽装する。
嫉妬はジェラシーや義憤などに身分を偽り、ときに無害を装ってその願望を密かに満たす。だからこそ、この感情は主流の社会科学ではとても扱いづらい。
こうした偽装のなかでも最もタチの悪いのが、嫉妬が正義の要求として現れるときである。人々が正義感から世直しを求めて立ち上がるとき、あるいは社会の不公正や不平等の是正を訴えるとき、そのほとんどは純粋な動機、つまりは正義感や道義心からのものであろうと思う。
他方で、そうした正義の訴えのなかに、富者や自分の気に入らない相手への私情が紛れることがあるのも事実である。成功者への嫉妬感情が経済格差への批判として現れる、そうしたことが絶対にないと言い切れるだろうか。そんな光景はすでにSNSではありふれたものではないだろうか*。
*同じような論点を扱ったものとして、スラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』(清水知子訳、河出書房新社、2005年)102ー103頁を参照。
卑近な例を挙げるとすると、筆者はかつて喫煙者であった。あるときを境にやめることにしたのだが、それ以来、他人の煙草のにおいにとても敏感になった。
かつては自分も深々と吸い込んでいたそれが空中をふわりと漂ってきて鼻腔をくすぐると、とても強い不快感を抱くようになったのだ。そういうとき、決まって私は「ここは喫煙所ではないのに……」であるとか、「近くに小さいお子さんもいるのに……」などと、常識的な正義感にもとづいて憤っているつもりであった。
不思議なことに、その不快感は、煙草を吸ったことのない人が抱くよりもはるかに強いものであった。最近でこそあまり感じなくなったものの、振り返ればこの不快感には喫煙者への嫉妬が確かに含まれていたように思う。
もしかすると近年の過度な禁煙運動もまた、受動喫煙を回避するなどと訴えつつ、同じようなマインドによって動かされている部分もあるのではないだろうか。
あるいはCOVID・19のパンデミックが始まった頃、「自粛警察」と呼ばれる人々がしばし話題になった。彼らは、政府が自粛を求めているのに、それにしたがわず営業を続けている店舗や外食を楽しんでいる人々に苛立ち、それを熱心に妨害した。
そうした嫌がらせ行為はおせっかいが行き過ぎたものがほとんどだろうが、彼らのそうした行為は嫉妬心に由来したもので、それを正義感によって糊塗したものではなかっただろうか──「みんな我慢しているのに、自分たちだけ楽しんでいるのは許せない!」