創業は昭和30年代

渋谷ヒカリエ、渋谷フクラス、SHIBUYA TSUTAYA ……。再開発ラッシュで変わり続ける渋谷において、昭和中期から変わらずそこにあり続けるのが、ノスタルジックな看板が印象的な「天津甘栗」。この店の歴史が始まったのは昭和20年代後半だという。

「天津甘栗」渋谷ハチ公前本店の店頭(撮影/集英社オンライン)
「天津甘栗」渋谷ハチ公前本店の店頭(撮影/集英社オンライン)
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「私の父がこの場所に食堂を開いたのが始まりです。その後、薬屋を経て、私が生まれた昭和33年にはすでに天津甘栗屋を始めていたと思います。当時は何か商売をやれば当たる時代で、父もチャレンジ精神が旺盛なものでしたから、今でいうスイーツを流行らせる感覚で挑戦したんだと思います。

狙いどおり天津甘栗は評判を呼び、現在の渋谷マークシティ付近など都内に10店舗の甘栗屋さんを展開するほどになりました」(藤山さん)

(撮影/集英社オンライン)
(撮影/集英社オンライン)

しかし、昭和から平成にかけて、日本人の食文化は大きく変わる。甘栗市場の最盛期は昭和30年代から平成初期にかけてで、当時、天津甘栗を製造・販売する会社は70~80社ほどあった。

だが現在は大正時代創業の「甘栗太郎」を含め20社に満たないという。藤山産業が抱える甘栗屋もハチ公前本店のみとなってしまった。その理由を藤山さんはこう話す。

「甘栗が焼けた香りはかなり広範囲に広がるんです。だから駅ビルにあった店なんかは『ニオイがきついから』という理由で閉めざるを得なくなりました。
店が減れば買う人も減って……ということですね」

毎年10月ごろに1年分の甘栗を輸入し、横浜の倉庫に保管。数ヶ月に1度、販売分のみ東京・祐天寺にある工場へと運び込まれる。写真は「天津甘栗」代表取締役の藤山光男さん(撮影/集英社オンライン)
毎年10月ごろに1年分の甘栗を輸入し、横浜の倉庫に保管。数ヶ月に1度、販売分のみ東京・祐天寺にある工場へと運び込まれる。写真は「天津甘栗」代表取締役の藤山光男さん(撮影/集英社オンライン)

万里の長城がある河北省の燕山山脈で収穫され、天津港から運ばれることから「天津甘栗」と名づけられたこの昭和のスイーツ。その輸入量は一番多い時代で年間3~5万トンだったのが、現在は約8000トンと大幅に縮小している。

不動産関係者によれば、「渋谷駅前のこのエリアの地価はコロナ禍でやや下がったものの、昨年から再び高騰しており、1㎡で1930万〜2050万と今がもっとも高い。今後もさらに上がり続けると思います」という超超一等地。

店頭では甘栗が「150グラム500円」「300グラム1000円」などで売られており、1日の来客は多くて100人程度。それでもこの渋谷ハチ公前本店が営業を続けられるのはなぜなのか。