『スーダラ節』に抵抗があった、生真面目な植木等

そもそも「スーダラ節」は、植木等が機嫌がいいときに発する口癖だった意味不明の「スイスイスイ」や「スンダラダッタ」というフレーズを、歌にしようと考えた渡邊晋が、青島幸男に作詞をさせることを思いついたものであった。

そこから生まれたサラリーマンの生活や気分を綴った歌詞は、「わかっちゃいるけどやめられない」という決めフレーズがハマったことで、流行語になるほどのヒットになって一斉を風靡した。

こうして「無責任男」としてスター街道を駆けていった植木等だが、実は根っから生真面目な性格で、水もしたたるいい男だった。また、ジャズ・ギタリストとしても一流の腕を持ち、かつてはオーソドックスなジャズを志していた時期もあった。

写真/shutterstock
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そのために出来上がった『スーダラ節』には抵抗があり、初めのうちは歌うこと自体を嫌がっていたという。

しかし、若い頃から社会主義労働運動や部落解放運動に参加し、戦時中は指導者として何度も投獄されるなど、徹底したヒューマニストであった僧侶の父親に相談すると、「『わかっちゃいるけどやめられない』は親鸞の教えに通じる」との助言をもらった。

そこで意を決して歌ったところ、レコーディングの現場ではミュージシャンが笑い転げてしまってNGが続出。異常なハイテンション状態になったという。
そのときの様子を当事者の青島が語っている。

「歌詞が面白かったのは当然として、萩原哲晶のメロディー、およびアレンジが抜群にスットン狂で、これまでに聞いたこともない様なおかしさだった。植木等がまた、これに輪をかけてフザケていた。途中まで歌ってみては、すぐにフキ出しちゃって、『ケッケッケッ‥‥‥』と例の大声で笑いころげる。何回も真面目な顔に立ち返っては初めからやり直すんだけど (中略) こんなことをえんえんとくり返し、どうやら無事に録音を終了した時は、予定時間を二時間もオーバーしていた」

 ビートたけし、タモリの生き方に影響

そうして出来上がった『スーダラ節』は、1961年8月にリリースされると大ヒットを記録。クレージーキャッツ、そして植木等の人気がここから一気に急上昇する。それまでの日本にはいなかった新しいスターの誕生だった。

翌1962年には、植木等主演の映画『日本無責任時代』が製作。その主題歌として作られたのが「無責任一代男」だ。

1962年7月20日に発売『無責任一代男』(東芝レコード)のジャケット。ハナ肇とクレージーキャッツ3枚目のシングルで、「こつこつやる奴ア ごくろうさん」のフレーズとともに大ヒット
1962年7月20日に発売『無責任一代男』(東芝レコード)のジャケット。ハナ肇とクレージーキャッツ3枚目のシングルで、「こつこつやる奴ア ごくろうさん」のフレーズとともに大ヒット
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子供の頃にこの歌を聴いたタモリは、その歌を座右の銘とするようになったという。ビートたけしも同じく植木等の歌で、人生観を変えられたと述べている。

大瀧詠一はクレージーキャッツのマニアになっただけでなく、無責任ソングのノウハウを身につけて、自らのナイアガラ・サウンドに活かした。

そして座付き作者だった青島幸男は、「こつこつやる奴ア ごくろうさん」と、国会議員から東京都知事になったのである。


文/佐藤剛 編集/TAP the POP

参考文献
「CDジャーナルムック 青島幸男読本」(監修/北中正和・青島美幸)
「スーダラ人生 クレージーキャッツ物語」