コミックソングが日本で大ブーム

1960年代初頭からテレビで人気が上昇していたクレイジーキャッツ。その最初の爆発は、植木等が歌った『スーダラ節』の大ヒットから始まった。

そこから『ドント節』『五万節』『ハイそれまでヨ』『無責任一代男』とコミックソングがヒットし、加速度的に日本中にブームを巻き起こしていった。

その快進撃を支えていたのは、「植木等」というキャラクターを確立させた、座付き作者・青島幸男による歌詞と、作曲・編曲の萩原哲晶が考え出した破天荒なソングライティングの力だった。

それがテレビ番組と映画とライブを組み合わせたトータル・プロデュースによって、それまで経験したことがない面白さを生み出した。

陣頭指揮していたのが渡辺プロダクションの創始者で、ゼネラル・プロデューサーでもあった渡邊晋である。クレージーキャッツにとって、その存在と指導力は実に大きいものであった。

1961年8月20日発売の『スーダラ節』(東芝レコード)のジャケット。曲が大ヒットをした翌年の1962年には映画『スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねえ』が製作された
1961年8月20日発売の『スーダラ節』(東芝レコード)のジャケット。曲が大ヒットをした翌年の1962年には映画『スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねえ』が製作された
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得も言われぬ”おかしさ”が漂う「スイスイスーダララッタスイスイ」

月曜から金曜まで放送される昼の帯番組『おとなの漫画』の構成作家だった青島幸男は、なかなかいいアイデアが生まれてこないので、毎日のように締め切りに追われて苦しんでいた。

だから安定した身分が保証されているサラリーマンのことを、どこか「気楽な稼業だ」と羨ましがりつつも、一方では宮仕えの立場による息苦しさも考慮して、そこからの解放の気持ちを込めて、「チョイト一杯のつもりで飲んで」から始まる歌詞を書いた。

『スーダラ節』でレコードを出そうとしたとき、二つの選択肢があったという。一つは、実力のあるミュージシャンが揃ったバンドなのだから、常套的に「いい歌を作る」という案。もう一つは、はなから割りきって「売れる歌を作る」という案。

そして選ばれたのは「売れる歌を作る」だった。青島流に言えば、「PTAのおばさまなんかがガタガタ騒ぎ出すようなバカ歌」で、とにかく「バンバン売れる歌を作る」という方針が決まったのだ。

『スーダラ節』が爆発的に受けたのは、どこかしら意味がある前半の歌詞を受けて、後半に展開していく植木等のウキウキしてくるような調子のいい言葉=「スイスイスーダララッタスイスイ」が時流に合っていたからだろう。

このフレーズは意味不明ながらも音楽的にノリがよかったし、得も言われぬ”おかしさ”が漂ってくるものだった。