純文学余技説
野球(部)は当初、純粋な余技であった。余技とは〈専門以外にできる技芸〉【4】の意だが、ここでは昭和初期に活躍した小説家、久米正雄の言葉「純文学余技説」を便利使いするのがよいと思う。「文学というものは、大なれ小なれ、生活の救抜を目的としているものだが、その救抜の本式の形は余技であって、職業化されてはならない」。
久米は「もっとも大切なもの(純文学)」と「生活のための仕事(大衆小説)」を、同じ地平で語るべきではないと主張した。当時、彼は大衆小説作家として大きな財産を築いており、「余技説」は、自身が量産していた作品の質に対する藝術面からの批判を避けるための方便でもあった。
小説という藝術作品の本来性(良さ)を守るためには、どうすべきか。大衆小説は食うための職業に過ぎない。職業は金を稼ぐためにおこなうもので、そこに藝術性を求めるべきではない。藝術性は安定した生活の上で展開される余技でこそ十全に発揮されるべきだ。仕事に「正しさ」など求めないでくれ――。
職業的報酬の発生
『体罰と日本野球』で紐解かれるメカニズムは、この「余技説」と見事に軌を一にしている。先に述べたように、日本で最初期に野球を楽しんだのは、一高や大学の学生たちだった。
〈学業での怠慢は、落第や退学に直結していたため、勉強と野球の両立は一高野球部員にとって至上命題であった(…)一高野球部員は、教師や親から叱責されたり、校友から忠告を受けたりしながらも、日々練習や試合に励んでいたのである〉【3】
こうして一高は連勝を重ねるが、野球が一般子弟の世界に広がりを見せると、黄金時代は終わりを迎える。なぜなら、一高生たちは勉学にも励まねばならなかったからだ。
〈例えば、一九〇三年の入試の状況を見ると、一高の倍率は全校平均の二.四九倍を大きく上回る三.五九倍、合格最低点もすべての部類でもっとも高かった。その結果、一九〇〇年代に入ると「中学選手達のうち技倆優秀な者でこの難関を突破し来る者は皆無」〉【5】
本来、学生の本分は勉学にある。野球は愉快な余技のはずであったが、東京六大学野球のラジオ中継が始まると様相が一変した。それは、学生野球の選手たちが余技であるはずの野球で、金や働き口といった職業的報酬――生活の糧を得るようになったことを示している。
明治期には、レギュラー選手と若干名の補欠、十数人の部員で楽しくプレーしていた学生野球は、1940年代に入ると〈ほとんどの一年生が「フロ当番、グラウンドならし、球ひろい」〉【6】の生活を強いられるようになったのである。