数々の青春小説を執筆し、近年は中学受験の問題に相次いで著作が使用されていることから、中学受験の新女王とも呼ばれる作家・額賀澪さん。しかし、学校のことを知るほどに、部活についての疑問が湧き上がってきたそうです。
今回その疑問を解決するため、名古屋大学で教員の過労問題や体罰について研究を行っている、教育学者・内田良さんに会いに行きました。額賀さんにとって初めての児童書となった『ラベンダーとソプラノ』(岩崎書店)を引き合いに、学校の部活について語り尽くします。
撮影/大槻志穂 構成/編集部 (2023年12月15日 神保町にて収録)
小説で部活を描く難しさ
額賀 早速ですが、実は最近困っていることがありまして……。私、若い子を主人公にした小説を結構書くんです。それで、高校生を主人公にすると当然学校が出てきて、部活がメインの題材になったりもするんですけれど、十年くらい前にデビューしたときは、自分が高校生だった頃の感覚で素直に部活を書けたのが、今は、どうやって部活を書けばいいんだろうと思い始めてしまって。特に、『ラベンダーとソプラノ』を書いたときが、一番どうしようかと悩んでいたんですよね。
内田 どうしようかっていうのは、どういう意味ですか。
額賀 みんなで頑張って何かを成し遂げようとなったときに、それを楽しめる子が主人公なら小説は書きやすいんです。いっぱい練習して強くなるのが、楽しいって。でも、そうではない違う立場の子をちゃんと出してあげないと、前時代的な部活小説になっちゃうんじゃないかなあというジレンマがあって。今の子が読むことを考えると、この価値観だけじゃ駄目だよなとなる。先生がどう考えているのかも入れたいなとか。
内田 保護者はどうだとか。
額賀 そうなんです。例えば主人公が、朝早くから夜遅くまで練習するために学校に弁当を三つ持って行くとするじゃないですか。このとき、弁当を三つ作っているお母さんを、ただ「弁当三つ作ったから頑張ってきなさい」のセリフで済ませちゃ駄目だろうと。お母さん、めちゃくちゃ大変じゃん。お父さんは何とも思ってないのか? などという気持ちが出てきてしまって、なかなか部活ものを書くのが難しくなってきているんですよね。
私、内田さんの『ブラック部活動』を読んだときに、全部そのとおりだと思ったんです。部活動は自主的なもの。自主的ゆえに強制力が出てしまう。これが、すごく学校っぽさを表していると思うんですね。その状況における部活の描き方について、なかなかこれだという方向性が見つけられずに、気づけば令和六年という感じなので、このお話をぜひ内田さんとしたいなあと思って。
内田 なるほど。でも、もう『ラベンダーとソプラノ』に、答えは書いてあるような気がしますよ。