「オンナ寅さん北京をゆく!? 新境地の魅力」綿矢りさ×藤井省三『パッキパキ北京』対談_1
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「オンナ寅さん北京をゆく!? 新境地の魅力」綿矢りさ×藤井省三『パッキパキ北京』対談_2
パッキパキ北京
著者:綿矢 りさ
定価:1,595円(10%税込)

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 二〇二二年の冬から二三年の春にかけての数ケ月、北京に滞在した綿矢りささんの実体験から生まれた小説『パッキパキ北京』には中国の“今”が詰まっている。主人公は、コロナの時期に北京に単身赴任しいろいろ弱っている夫に乞われて渡航した菖蒲(アヤメ)。実際の作者自身よりも、菖蒲はコロナが明けてからの北京を大胆に自在に闊歩する……。
 対談のお相手は雑誌掲載時からこの小説に興味を持っていたという、日本を代表する中国文学者・藤井省三さん。綿矢さんの思いもかけない中国との縁や中国文化とのつながりを文芸評論家として紐解いてゆく。

構成/長瀬海 撮影/中野義樹

『蹴りたい背中』からの因縁

綿矢 私が中国に関心を持ったのは割と最近で、三十代の半ばを過ぎてからでした。その頃は中国語に簡体字と繁体字の違いがあることもわかっていなかったんですが、慣れ親しんできた日本の漢字とは形や意味が少しずつ違う簡体字の魅力に惹かれて勉強をするようになったんです。当時はちょうど中国語で書かれたネット小説が日本でも読めるようになり始めた時期で、私もファンの方が翻訳してくださる小説を読むようになり、中国の文化に親しみ始めました。小説だけじゃなくて映画もたくさん観たのですが、なかでも大好きなのが『さらば、わが愛/覇王別姫』です。つい最近も4Kのリマスター版が都内で再上映されたので観に行き、パンフレットを購入したところ、そこに藤井先生の文章が収録されていました。それが中国の歴史を踏まえた解説になっていて、すごくわかりやすくて驚きました。私も昨年の冬から今年の春にかけて実際に北京で暮らし、そのときの体験に基づいた小説を書いたばかりなので、今日はいろいろと教えていただきたいと思います。
藤井 綿矢さんがそこまで中国に関心を持って、中国語の勉強までなさり、小説もお読みになっていたと伺って驚きました。恥ずかしいことに、私は綿矢さんの小説は二十年前に『蹴りたい背中』を読んだきりでした。当時のことを思い返すと、不思議に思ったことが二つあったのを覚えています。一つが小説の主要人物である男子高校生にな川くんの「にな」の漢字です。作中では「にな」は難しい字ということもあって、ずっと平仮名で呼ばれていますよね。漢字を当てると「蜷」なわけでして、虫編に巻く、と書きます。まるで玉虫がくるっと回るような巻いて曲がるイメージで、にな川くんという人物の性格にぴったりでした。漢字からそんなことを連想させる名前の付け方が上手だなぁと思いました。
 もう一つは、にな川くんが追いかけているモデルのオリチャンについてです。チャンっていうのは人の名前に親しみを込めてつける接尾語の「ちゃん」ではないのですね。物語の後半、主人公のハツはにな川くんとオリチャンのライブに行くことになるのですが、その場面で「Oli-Chang First Live Tour.」と書かれたチケットが出てくる。Changを中国語のピンイン表記として読みますと「張」の字となりまして中国語圏にルーツを持つ人物が想像されます。また、オリチャンは「ハーフみたいな顔立ち」とハツに表現され、「鼻がツンと高くて彫りの深い顔立ちなのに、目だけが日本人の一重目蓋だったその顔」と描写されてもいる。これだけだと日本人と欧米人の混血のように見えるのですが、Changという名前が中華圏のものだと考えると、もう少し複雑な背景が浮かび上がります。もしかしたら、にな川くんの「にな」が漢字を隠して平仮名になっているのとオリチャンの「チャン」が漢字を連想させるChangになっているのは対句的な発想に基づいているのかな、と思ったりもしました。名前の漢字を巧みに使って小説を組み立てる面白い作者だなぁと当時、感じたのを覚えています。
綿矢 そうですね。確かに、にな川の方は漢字の意味合いを残しながら「にな」の響きを大切にするために平仮名に開きました。その方が私の描きたかった男の子の姿に近づくかなと考えたんです。でもオリチャンに関しては、先生がおっしゃってくださったことはほとんど意識していませんでした。にな川がハマってるのが典型的な可愛いアイドルではなく、おしゃれで外国の雰囲気を身にまとっている人にしたいと思っていました。容姿もアジア人だけど日本人よりはちょっと背が高い人をイメージしてたぐらいで、中華系の人物を想像して書いたわけではありませんでした。なんでこんな設定にしたんだろうって今では思います。当時は中国語も全く勉強していなかったし、日本以外の国にもあまり詳しくなかったですし。
藤井 もしかすると何かの因縁かもしれませんね。その二十年後に『パッキパキ北京』で中国について書くわけですから。
綿矢 そうですよね。あの頃から無意識のうちに中華系の人に惹かれていたのかもしれません。
藤井 名前に注目して『蹴りたい背中』と『パッキパキ北京』を比べて読むのも面白かったです。『パッキパキ北京』はコロナ禍の北京にヒロインの菖蒲さんが移り住み、冒険をする物語です。菖蒲は「アヤメ」とルビが振られていますが、漢字だけ見て私が思い浮かべたのは漢方薬のショウブの根でした。乾燥させると胃薬になることでも知られている薬草です。菖蒲さんは美味しい中国料理が大好きな人物なので、きっと胃も疲れるだろうから、胃を回復させる意味を込めて菖蒲なのかな、と。あるいは、菖蒲さんのお連れ合いが駐在員として先に北京に渡っているわけですが、コロナ禍の北京の環境に馴染めず、ノイローゼ気味になっている。そんな彼を癒す薬という意味もあるのかな、とも思いました。
綿矢 名前を決めるときに中国でも日本でも同じ意味を持つ漢字を使おうと考えたんです。菖蒲は日本語ではアヤメ、中国語ではチャンプーと読みますが、どちらも花を指しますよね。響きもなんだかかわいいし、中国人のお友達ができたときにチャンプーって呼ばれるくだりを書き込もうかなと思ったのですが、結局、そのタイミングがうまく摑めず、書けませんでした。漢方薬のことは知りませんでしたが、確かにそう考えるとぴったりですね。
藤井 菖蒲さんは大変活発で、とても知的な人ですので、そういうヒロインにふさわしい名前だと感じています。

女性版フーテンの寅さんを書く

藤井 先ほど綿矢さんの作品は『蹴りたい背中』で止まっていたと言いましたが、今回の対談のためにいくつか拝読いたしました。『オーラの発表会』、『意識のリボン』、『嫌いなら呼ぶなよ』、それから『生(き)のみ生(き)のままで』。それは豊かな綿矢さんの作品群のほんの一部にすぎませんが、やはり『蹴りたい背中』と繫がっているような気がしました。主人公は常にクラスや職場、あるいは家庭に所属してはいるものの、その所属している状態にどこか辛さを感じている。『オーラの発表会』の海松子(みるこ)は生き辛さではないものの、独特の緊張感を抱えていますよね。
 そういう意味では帰属意識というのが綿矢さんのこれまでの一つのテーマだったと言ってもいいのではないか。ですが、今回のヒロイン菖蒲さんはそれとは全く逆で、何かに帰属しているという意識が希薄な人物です。もともと銀座のクラブでホステスとして働き、それなりに活躍していたのですが、今ではその職場とは縁が切れており、繫がっているのは仲の良い後輩が一人だけ。一緒に「女子会」をする仲間もいるみたいですが、決してその関係性に依存しているわけでもない。かなり年上のバツイチの夫との間柄も親密なものではなく、贅沢させてくれるから一緒にいるだけ。子どもが欲しいと言われると拒絶反応を示す。どこかに所属している感覚が菖蒲さんにはほとんどないんじゃないかなって思います。彼女は綿矢文学における新しいヒロイン像と考えてもよろしいでしょうか? それとも私が見逃しているだけで、彼女のような人物は既に登場しているのでしょうか?
綿矢 ここまで根無し草な人物を書いたのは初めてです。私、フーテンの寅さんが好きなんですが、寅次郎の女性版みたいな人を書いてみたいと思っていたんです。家族や結婚にとらわれずにずっと旅をしているような女性を。それで今回、どこにも属していない、それでいて孤独が平気なタイプの女性を主人公にしました。寅さんみたいに人情あふれる優しさは、菖蒲には無さそうですが(笑)。
藤井 腹巻きの似合う寅さんに対して、ミニスカの似合う菖蒲さんというわけですね。
綿矢 はい、そうですね。この社会で女の人が寅さんになるのはやっぱり難しいんです。面白がられるより先に「どこかムリしてるんじゃない?」っていう詮索の目の方が、先に来ちゃう感じがする。でも、そろそろそういう人が現れてもいいかな、と思いました。みんなにダメだあいつは、と言われながらも、どこか羨ましがられたりもする、そんな自由な女性が出てきてもいい頃なんじゃないかなと考えたりもしました。
藤井 菖蒲さんはとても魅力的な女性ですね。私は銀座のクラブとは全くご縁がありませんが、こういう人は職場の人気者になるだろうと思います。そんな彼女が北京を自由自在に闊歩する。中国は少し前まで政治的にもアメリカと覇権を争い、経済的にもすぐにアメリカに追いつくのではないかと言われていました。北京は新しい覇権大国の首都として繁栄していたわけです。ですが、コロナで三年間封鎖され、その動きは止まってしまった。菖蒲さんがやってきて観察しているのは、そんな停滞していた北京なんです。
 菖蒲さんの鋭い観察眼がこの作品の魅力の一つですね。「車内で中国の人を見てると、同じアジア人だから日本人と似てるけど、よくよく観察するとやっぱり細部は違うから、元から全然違うよりも間違い探しみたいで面白い」なんて菖蒲さんは言ってます。ヘアスタイル一つとっても、中国人の場合、男女で違いが明確にあるから、そこに性差がはっきりと現れる。中立的なヘアスタイルの多い日本とはそこが違うんだとも言う。逆に外見的な性差はそこくらいにしか現れなくて、冬の着ぶくれファッションは男女ともに同じだとも語っています。私も読みながら、そうそう、そうだよね、なんて頷いておりました。こうした北京の歩き方、感じ方には綿矢さんご自身の経験が投影されているのですか?
綿矢 そうだったら良かったんですが……。本当は私も菖蒲みたいに自由に北京で振る舞いたかったのですが、自分はどちらかというと菖蒲の夫側の気持ちで暮らしていました。つまり、自分が日本人としてどう思われるかをすぐに気にしてしまったり、中国語が通じないのが恥ずかしいからどこかに行くのをやめてしまったり。そんな風にずっと緊張しながら北京をうろうろしていたんです。だからこそ、自由に言語の壁を越えて北京という都市を楽しめる人物を描けたらいいなと思ってこの作品を書きました。

「オンナ寅さん北京をゆく!? 新境地の魅力」綿矢りさ×藤井省三『パッキパキ北京』対談_3

小説から読み解く現代の中国文化

綿矢 北京の街は驚くことばかりでした。街の巨大な建造物のスケールや華々しさはもちろん、住宅街の人の多さやエネルギーにも圧倒されっぱなしでした。たとえば交通に関しては、もう異次元で(笑)。藤井先生も『現代中国文化探検――四つの都市の物語』のまえがきで「ただし車にはくれぐれも気を付けて」と書かれていましたが、スクーターのような電動自転車がすごい勢いで走っていて何度も轢かれそうになりました。ああいった交通事情は中国全体のものなのですか?
藤井 ええ、そもそも中国にはガソリンで走るオートバイを騒音や公害問題のために禁止している都市が多いんですね。そのために電気自転車は二十一世紀になると爆発的に普及しました。『パッキパキ北京』のなかでも菖蒲さんのお連れ合いが的確に説明しているように、電気自転車は免許も要らず、自転車感覚で走れるので誰でも比較的自由に乗れる。だから車を買うほどのお金がない人でも気軽に所有しているわけです。
 もともと中国では九〇年代半ばまで、車に乗ることは改革・開放政策による成り上がり資本家や高級官僚の特権でした。中国には指導層優遇の伝統があるためでしょうか、交差点で青信号を歩行者が渡っていても、日本では赤信号で停止するはずの車が停止することなく右折できます。ですから、歩行者が車を心配せずに安全に横断歩道を渡ることが難しいのです。そういう意味では元々車優先社会だったところに、九〇年代末に起こったモータリゼーションのおかげで中産階級の人たちも車を持てるようになった。それに続けて中産階級より下の人たちが、電気自転車に乗り始めました。小説のなかでも菖蒲さんが信号待ちをしているときに、スクーターおじさんが滔々たる車の流れに怒りを爆発させて赤信号を進み、青信号待ちの歩行者にみんな渡れと指示する姿を目撃したと書かれていましたね。あれは車を所有する中産階級以上の人間に対する、庶民たちの怒りなんだと思います。
綿矢 へえー‼ 車へのライバル意識があるなんて全く知りませんでした。あの場面はそういう意味があったのか(笑)。
藤井 日本ですと、車を買うときに車庫証明が必要かと思いますが、中国では車庫証明なしで車をどんどん売ってしまう。その結果、みんな歩道に乗り上げて違法駐車してしまうので、今では歩道を駐車場に転用して料金をとっています。違法駐車よりはいいのでしょうけど、歩道を歩けなくなった歩行者が車道を歩いているのです。
綿矢 そうですよね。大渋滞が起こってると思ったら全部路上の駐車場だったみたいな光景も見かけました。
藤井 あと、歩行者が邪魔だと電気自転車はすぐクラクションをブーブー鳴らすでしょう。コロナ前に私が住んでいた南京でもマンションの前が狭い路地で、隣が幼稚園だったのですが、この路地を電気自転車がバイパス代わりに通行してクラクションを鳴らし続けるものですから、その騒音たるやなかなかのものでした。
綿矢 私、あれが一番驚いたかもしれません。北京にずっと住みたいと思うけど、あの光景が日常になるのは厳しいですね。中国の人ほど反射神経が鍛えられていないから。
藤井 中国人は逃げるよりも慣れろ、と度胸を据えております。しつこくクラクションを鳴らされようとも動じることなく、悠然と歩いていますね。
綿矢 堂々としてるんですよ。小走りとかしないんです、しっかり前を向いて。あれを身につけるまで住めそうにないですね。
藤井 そういうなかで菖蒲さんが勇敢に街を歩いているのはご立派です。怒られてもへこたれないですし。お連れ合いも驚いていましたね、「君は本当にポジティブだな。海外暮らしが向いてるタイプ」だって。
綿矢 めげないのはすごいですよね。私は道路交通事情が怖すぎて、今日はあまりコンディションが良くないなって日には家から出るのにとても勇気が要りました……。