「ブッダは瞬間移動した」というトンデモ

たとえば、第8章〈仏教誕生の思想背景〉において、仏教は沙門宗教のひとつと位置づけられている。沙門宗教とは、インドで支配的地位を占めていたバラモン教に挑戦した新興宗教群である。これらの新興宗教群に通貫する特徴は、バラモン教のドグマである「生得的なカーストと悟りの不可分」を解除したところにあった。つまりカースト外の不可触民も含めて、人は誰もが聖者になり得る可能性を持つと主張したわけである。

ブッダは本当に差別を否定し、万人の平等を唱えた平和論者だったのか−いったい何者で、何を悟り、何を語ったのかに迫った革新的ブッダ論【〈ノンフィクション新刊〉よろず帳】_2

その前提の上で、清水は仏教とそれ以外の沙門宗教(六師外道)の違いを考察し、インド宗教史における「ブッダのおこなった主張の独自性」を端的に位置づけている。

〈インド諸宗教において、輪廻の主体である恒常不変の自己原理を否定したのは、唯物論者と仏教だけであった〉、〈輪廻の苦しみを終わらせるためには、無知(無明)をはじめとする煩悩を断じなければならないとの主張は、他宗教には見られない〉、〈二五〇〇年前のインドにおいては、無我も縁起も、それまでの価値観を根底から覆す革命的な発見であった〉【1】

彼の舌鋒は鋭く、これまで数多の者たちが「ブッダ/仏教」に見出してきた徳目を次々に俎上に載せ、両断してゆく。

〈古代や中世の仏教者たちが、当時の時代性にあわせて「一切智者であるブッダは、すべてをお見通しである」、「ブッダは超能力を使う」などと神格化したのと同様に、現代の仏教者たちもまた、「歴史のブッダ」を構想しようとするなかで、近現代的な価値観と合致するように、「平和主義者だった」、「業と輪廻を否定した」、「階級差別を否定した」、「男女平等論者だった」と神格化してしまっているのである〉【1】