宅間家にはじめて泊まった夜
わたしがはじめてAさん宅に泊ったのは、事件発生から1週間後の6月15日。事件後、好きな酒を断っていたAさんは頬がこけ、憔悴していた。口にするのはガラス瓶に入れたお茶だけだった。
未成年ならともかく、37歳にもなる息子が犯した事件でそこまで自分を追い込まなくてもいいのではないか……。わたしはAさんが好きだというビールをすすめ、夜明けまで語り合った。翌朝には、実父のコメントを求めて報道陣が集まった。酔いが残っていたAさんは、台所の窓を数センチ開け、大声でまくし立てた。
「同じことを何度も言わせんな。勉強してから来い!」
そして、断酒を解き、写真週刊誌の記者と朝まで飲んだことを報道陣に告げた。記事にされることをわかったうえで悪態をつく。
「あー、しんど。損な性分だと言われても今さら変えられへん。ワシはこうやって70年生きてきたんや」
酔ったAさんの言動はテレビに流れ、大袈裟ではなく、全国民を敵に回した。その責任はわたしにもあり、「あきれた取材現場」と週刊誌で叩かれた。このころ、10キロも体重が落ちていたAさんは「ワシ、死ぬんとちゃうかな」と珍しく弱音を吐いた。
その晩、Aさん宅の茶の間のこたつで寝入ったわたしは、ドカドカと入ってきたマスコミの足音で目が覚めた。Aさんが2階の守の部屋を公開したのだ。
壁には、女性自衛官や戦闘機の色あせたポスターが貼られていた。本棚にはヒトラーの『わが闘争』、大学ノートには小学生から高校2年生までの「反省文」が13ページにわたって綴られていた。守は工業高校中退だが、大学生だった兄を意識してか、〈灘高〉の文字もあった。
この日を境に、守の取材だけではなく、関西出張のたびにAさん宅を訪ね、泊めてもらうようになった。わたしがAさんを「お父さん」「オヤジ」と呼ぶようになったのもこのころからだった。