招婿婚は基本的には女性やその両親がリードして成立する婚姻スタイルなのに…
でも、一度関係を持ったからといっても、婚姻関係には至りません。二人で一夜を明かした後もお付き合いが続き、女性が「この人は特別に良いな」と思った際に、ようやく女性側の両親が登場します。
女性が両親に「この人が私の選んだ人です」と男性を紹介し、男性も「お嬢さんとお付き合いさせていただいております。どうぞよろしくお願いします」と挨拶をする。
この「露顕(ところあらわ)し」という儀式を経て、両親が「この男は良い男だな。よし、うちの娘の婿として認めてやろう」と考えれば、婚姻は成立します。
両親との顔合わせも済んだ後であれば、男性は夜に限らず、時間帯を選ばずに女性の家に通うことができました。仮に二人の間に子どもができたら、母方の祖父母、すなわち女性の両親の家で育てるのが一般的で、その子が成長すると、母方の家の財産を相続することができました。
ここでポイントなのは、招婿婚とは、基本的には女性やその両親がリードして成立する婚姻スタイルだったという点です。また、女性の家で子どもが育つということは、祖母から母へ、母から娘へ……と女系の血筋で家がつながることを意味しています。これらは、当時の女性の存在感が社会的にも大きかったことの証左でしょう。
ですが、ここでひとつ疑問が浮かびます。仮に女性の血筋で家がつながっていたのであれば、当時の家系図も女性の系図で残されてもおかしくない。
しかし、この時代の家系図を見ると、天皇家はもちろん、藤原氏や大伴氏もやはり男性の系図しか見当たりません。家自体は女性の間でつながっていくのに、家系図は男性でつながっている。これは、非常にいびつで、不完全な状態です。
この不完全さがあったからこそ、家族形態として招婿婚は定着せず、平安時代を過ぎると、現代の私たちが知るような、祖父から父へ、父から息子へ、息子から孫へと男系で代々の家が続いていったのではないでしょうか。
トッド氏の理論を援用すれば、おそらく単婚小家族から直系家族へと日本の家族形態が移行するひと時に、男性が女性の家に通うという婚姻スタイルが発生しました。
大きな歴史の流れのなかで、家族形態のようなものが変化するのにはそれ相応の時間がかかります。
事実、その後招婿婚は150〜200年ほど続きました。その後、その中の一人の子どもが全ての財産を受け継ぐ直系家族へと移行していきます。
こうして、大きな歴史の過渡期に生まれた〝バグ〞であった招婿婚は、日本の歴史から姿を消した。僕はそう考えています。