三冠王・落合博満の選手会離脱
「そう。何千万円ものお金をもらっているプロ野球選手というイメージがあって、そんなに恵まれている連中がなんで組合をつくるんだとね。だから、俺はまず多くの人が理解しやすい待遇改善の提言を表に出していったんだ。それはマスコミを通じて理解してもらうためだった。こんな状態では“夢のある世界”とは言えないでしょうと」
中畑は選手が全力で安全にプレーができるようにフェンスにラバーカバーをつけることや膝の負担が増える人工芝の改善などを訴えた。さらには移籍の自由であるFA(フリーエージェント)も視野に入れていた。
ところが、この方針に同志である重鎮との間で齟齬が生じていくことになる。三冠王・落合博満である。ロッテのマネージャーだった松原徹(後に事務局長となってストライキなどで辣腕を振るう)を事務局に紹介してくれるなど、当初は協力を惜しまなかった落合であるが、やがて「それは向かっている方向が違うだろう」と告げて選手会を離脱していくのである。
「落合は『なぜ、統一契約書の問題に真っ先に着手しないのか?』という考えだったんだ。統一契約書は機構がつくったものだから、そりゃあ向こうが有利だ。こつこつと待遇や環境の改善の話をするんじゃなくて、最重要課題に行けと。
でも統一契約書の問題をいきなり出しても一般の人たちにはわからない。俺は戦略的にマスコミを敵にしてはいけないと思っていた。プロ野球選手が置かれている環境を具体的に知ってもらい、そして組合という存在を発信してもらって世論を味方にする。いわば中畑流。ただ落合はやっぱり”俺流”なんだよ」
落合はFAの導入よりも統一契約書の破棄を主張して組合を離脱する(1991年)のであるが、そのFAの権利が獲得されると(1993年)、真っ先に行使したのも落合であった。これもまた「俺流」であろうか。
話を1985年のオフに戻す。組合は設立したが、ここからまた労使交渉という大きな仕事が待っていた。あらためて中畑に当時の努力の軌跡を訊いた。
「主に機構側の福祉委員会と交渉するんだけど、そこは親会社から管理職クラスが来ていて、たいてい5対1での話し合いなんだ。もちろんこちらが1だよ。俺は野球バカだったけど、労使交渉もやって来た百戦錬磨の人たちと対等に戦うために必死で勉強したね。何を言われても反論できるようにシミュレーションしたし、キャッチボールの精神で機構側の相手も尊重したから、あの時代の福祉委員会の人には俺は信用あると思うんだ」
そうした交渉の中で特に今も記憶に残るやりとりは、どんなものか。
「『この組合構想は本当に君ひとりの考えなのか?』と言われたね(笑)。俺が妙に詳しいのでバックに誰かいるのかと思われたんだろうな。でもね、労働法も独学で学んで、食らいついていったから」
オフが明け、春季キャンプも終えていよいよ、選手の権利保障獲得に向けてのシーズンを迎えることとなった。ところが、1986年の開幕を直前に控えた4月2日に激震が起きた。ヤクルト選手会が突然、労組からの脱退を発表したのである。