「横浜が自分の街であることを、お互い作品を通して見つけた」永井みみさん(作家)が中村高寛さん(映画監督)に会いに行く_4

撮影している期間だけがドキュメンタリーではない

中村 『ヨコハマメリー』では、メリーさんを主軸に置きながら、横浜の街も撮りたかったんです。でも街を撮るってどういうことなのかがわからなくて、初期の頃は単純に街の風景をいっぱい撮っていました。監督失格です(笑)。けれど撮っていくうちに、そこに住んでいるのはどういう人たちだろうと、ベクトルが街から人に向いてきた。それで恐る恐る訪ねていくと、僕みたいにメリーさんのことや昔の横浜の話を聞いてくる若者はいなかったようで、皆さん面白がって話をしてくれるし、僕にしてみるとそれが興味深い。そうした話には心に響いたものや感銘を受けるものが多くあって、その人たちが住んでいる町の歴史や土地のことが気になってくる。
すると横浜の街とは何だろうと再び俯瞰した目に戻り、その場所に行っていろいろな取材をする。そうするとまた住んでいる人が気になって……と、ずっと人と街との間を行き来している感覚で撮っていました。

永井 『ジョニ黒』もまさに、人と街を行き来しながら展開していく話です。それにしても、あの映画に出てくる皆さんは濃い人たちばかりですね。

中村 取材日以外でも皆さんのところに通うようになると、地元の人間同士の付き合いに変化していきました。さっきも少しお話ししましたが、思いつきのように撮り始めたのに街の人を巻き込んでしまい、途中でやめたら皆さんの梯子を外すことになるから、完成させないと僕はもう横浜にはいられない。だからすごくプレッシャーがありました。
しかも、途中でキーパーソンの元次郎さんがガンになって、「お前、元次郎さんに恥をかかせるなよ」という皆さんの圧も感じて。最終的に元次郎さんの骨を拾うことになったとき、ドキュメンタリーを撮るのは大変な仕事だし、もうやっていられないかもと思いました。実を言うと、今もできるだけ映画を撮りたくないんです。

永井 元次郎さんの映像は笑顔のシーンで終わっていました。

中村 近親者の方には最後、亡くなるまで撮ってほしいとも言われていたのですが、元次郎さんとはもう魂と魂の付き合いになっていたし、カメラのないところで一緒にいたくてできませんでした。でも火葬場で骨を拾っているときに、元次郎さんの人生と最後までちゃんと向き合えただろうかという疑問が湧いてきた。『ヨコハマメリー』は元次郎さんの人生も重要な要素になっているので、たとえ作品には入れなかったとしても、ドキュメンタリーの作り手としてカメラを通して向き合うべきだったんじゃないかと後悔がずっと残っていたんです。それもあって、2017年に公開した2作目の『ヘンリ・ミトワ 禅と骨』では最後まで対象者に向き合いました。
僕の作品はどうしても生と死を扱わざるを得なくなってしまう。残念ながら、映画が完成して主人公とともに舞台挨拶をしたことが一度もないんです。高齢の方を対象者にした映画ばかりなので仕方がないんですが、その人の生きることと死ぬことにはからずも向き合うことになってしまうんです。

永井 監督が映像で自分の姿を残してくれたことで、その方々ももしかしたらもうこれでいつ死んでもいい、という思いがあったかもしれませんね。

中村 特に元次郎さんは、最後に自分の人生を僕に委ねてくれたという感覚があります。さっき「できるだけ映画を撮りたくない」と言ったのは、僕の仕事が、その人の抱えている大きなものをともに抱えて一緒に歩き、最後まで添い遂げることになるので、そう思えるかまでの逡巡が常にあるんです。一度背負ったからには、その人の命や魂のようなものをしっかり残さないといけないといつも思っています。
永井 対象者に対してそこまでの気持ちをお持ちなのは素晴らしいです。たとえばドキュメンタリーの監督でも、映画が完成したら一区切り、という人も中にはいると思うのですが。

中村 僕にはそういう感覚はありません。撮影しているのはある一定の期間、たとえば『ヨコハマメリー』ではメリーさんや元次郎さんの人生の最後の部分だけでも、やはり出会う前も含めて亡くなった後も関係はずっと続く。森日出夫さんなど他の登場人物も同じです。それをも僕はドキュメンタリーだと考えていて、決して撮っていた期間だけがドキュメンタリーではないんです。
そうなったのは、最初にお話しした「撮らされている」感覚ともつながりますが、出会いから人間関係ができていき、その上で、ある一部分だけ撮らせてもらっているという気持ちがあるからです。『ヨコハマメリー』を、トライアンドエラーを繰り返しながら自分なりの作り方で進めた結果、人と関わって映画を撮るのはこういうことなんだと理解していった気がします。

横浜が自分の街であることを、お互い作品を通して見つけた

中村 僕は横浜市の中でも金沢区という、鎌倉に近くて田んぼがたくさんあるようなところで育ったので、横浜の中心部を外から眺めている感覚がありました。この距離感が大事で、最初から中区や西区にいたら、横浜という街に対してこんなに興味を持たなかったし、たぶん『ヨコハマメリー』も撮っていなかった。ちょっと客観的な位置から見ていたからこそ、自分にとっての横浜とは何かを探すことになったんだと思います。

永井 中村さんの本に、中学のときに一度引っ越しをされて、また横浜に戻ってきたときに言葉になまりが混じっていると指摘されて、ショックを受けた、と書かれていました。同じような体験が私にもあるんです。中学一年生まで横浜で暮らしていましたが、その後引っ越しました。高校一年生のときに遠足で山下公園に行ったら、地元の高校生に「ダッセー!」と言われて(笑)。よそにいても、横浜の人間だという特権階級意識を抱えていたにもかかわらず、戻ってきたらダサい人間になっていた。心の支えにしていた横浜からいつのまにか落ちこぼれてしまっていた。そのことに気づかされた瞬間でした。そうしたトラウマがあったことで、横浜の物語をきちんと書いて横浜に認められたいと思ったんです。

中村 すごくよくわかります(笑)。横浜に戻って裏切られた気持ちになったときに、自分のアイデンティティがもろくも崩れ去っていく感覚がありました。
自分にとっての横浜とは何だろうと考えていても、調べる方法はもちろんアプローチの仕方すらわからない。たぶんそれを探すためのテーマがメリーさんだったんでしょう。要するに、ハマのメリーさんについて聞くと街の人々が横浜の話をしてくれる。それによって、僕にとっての横浜は何なのか?自分の街を、メリーさんを通して見つけていった。それも映画が完成に近づいていく間にだんだんと気づいたんです。きっと永井さんにとっての『ジョニ黒』もそういうことなんじゃないかと。作品を作ることでその場所を再確認というか、自分にとっての街が何なのかを探していかれたのではという気がします。

永井 まったくそのとおりです。