歴史を終わらせないために
マルクスで脱成長なんて正気か─。そういう批判の矢が四方八方から飛んでくることを覚悟のうえで、「人新世の『資本論』」の執筆は始まった。
左派の常識からすれば、マルクスは脱成長など唱えていないということになっている。右派は、ソ連の失敗を懲りずに繰り返すのか、と嘲笑するだろう。さらに、「脱成長」という言葉への反感も、リベラルのあいだで非常に根強い。
それでも、この本を書かずにはいられなかった。最新のマルクス研究の成果を踏まえて、気候危機と資本主義の関係を分析していくなかで、晩年のマルクスの到達点が脱成長コミュニズムであり、それこそが「人新世」の危機を乗り越えるための最善の道だと確信したからだ。
本書を最後まで読んでくださった方なら、人類が環境危機を乗り切り、「持続可能で公正な社会」を実現するための唯一の選択肢が、「脱成長コミュニズム」だということに、納得してもらえたのではないか。
前半部分で仔細に検討したように、SDGsもグリーン・ニューディールも、そしてジオエンジニアリングも、気候変動を止めることはできない。
「緑の経済成長」を追い求める「気候ケインズ主義」は、「帝国的生活様式」と「生態学的帝国主義」をさらに浸透させる結果を招くだけである。その結果、不平等を一層拡大させながら、グローバルな環境危機を悪化させてしまうのだ。
資本主義が引き起こしている問題を、資本主義という根本原因を温存したままで、解決することなどできない。解決の道を切り拓くには、気候変動の原因である資本主義そのものを徹底的に批判する必要がある。
しかも、希少性を生み出しながら利潤獲得を行う資本主義こそが、私たちの生活に欠乏をもたらしている。資本主義によって解体されてしまった〈コモン〉を再建する脱成長コミュニズムの方が、より人間的で、潤沢な暮らしを可能にしてくれるはずだ。
それでも資本主義を延命させようとするなら、気候危機がもたらす混乱のなか、社会は野蛮状態に逆戻りすることを運命づけられている。冷戦終結直後にフランシス・フクヤマは、「歴史の終わり」を唱え、ポストモダンは、「大きな物語」の失効を宣言した。
だが、その後の30年間で明らかになったように、資本主義を等閑視した冷笑主義の先に待っているのは、「文明の終わり」という形での、まったく予期せぬ「歴史の終わり」である。だからこそ、私たちは連帯して、資本に緊急ブレーキをかけ、脱成長コミュニズムを打ち立てなければならないのである。