回想によって反芻される恐怖
落下とは異なるが、ここで当方の「粘り気のある時間」に関する経験をひとつ披露したい。20年近く前に民間のFM放送に出演したことがある。ウィークデイの昼間であった。司会をしている若い男がわたしの著書に絡めて精神医学に関する話題を振ってくるのだが、どことなく人を馬鹿にしているかのような態度が伝わってくる。質問内容もゲスでくだらない。
外見も喋りもまことに軽薄な男で、当方としては自著の宣伝になるだろうといった下心があったからとはいえ、こんな人物と顔を突き合わせているのが心の底から情けなく、不愉快になってきた。
番組が終わりかけてきたが、まだスタジオから出て行くわけにはいかない。でも、もう嫌だ。はるばる渋谷まで来たのだから、せめて帰る途中であそこのレコード屋に寄って行こうかなどと頭の中で算段を始めていた。とにかくこの場から立ち去りたかったのだ。
ところがその軽薄男がいきなりわたしに向かって言うのである。
「では最後のまとめを、本日のゲストである春日さんにお願いしましょう!」
まさに不意打ちである。もう自分は発言せずに終わると思っていたのに。しかも、既に帰途での買い物を考えていた最中なのである。突然には思考を切り替えられない。俗に言う「頭の中が真っ白」になった。絶句したまま言葉が浮かんでこない。おまけに今は生放送の真っ最中なのである。
絶句した状態というものは、瞬時を置かず周囲はそれを察知するものらしい。司会の男もアシスタントの女性アナウンサーもプロデューサーも、全員の表情がぎょっとなり、たちまちのうちに身を強張らせ緊張していくのがはっきりと分かった。まさに手に取るように分かる。
スタジオ内の空気は異様に澄み渡って透明度が増し、精密で高価そうな放送機材が細かなディテールまでくっきりと見える。すべてが他人事のように感じられ、高速度撮影の画面を眺めているかのように感知された。
おそらくせいぜい1、2秒しか経過していない筈だ。しかし10秒以上には感じられた。そしてぎりぎりのタイミングで、自分でも意識せずに「最後のまとめ」が口からすらすらと出てきた。危ないところであった。まさに間一髪としか表現しようがない。
絶句した瞬間、わたしは「ヤバい!」と思い血の気が引いた。次の瞬間からはもはや恐怖と呼んで差し支えない感情が急速に心を覆い尽くしつつあった。だが同時にわたしの五感は研ぎ澄まされ、恐怖の感覚は麻痺し、それこそ「落下の勢いで耳たぶが上向きに曲がる」のを自覚するかのような悠長さすらも、焦り慌てる気持ちと共存させていたのだった。さすがにパノラマ体験までは生じなかったが。
こうして詳細に思い返してみると、わたしはまぎれもなくあのスタジオで恐怖を体験したにもかかわらず、その体験の中核においては恐怖感が透明なラップにでも包まれて生々しさを封印されていたような気がするのである。
恐怖は加速度の中に宿っており、一定の速度にまで達したとき(そのとき、相対的に現実の時間の流れはゆっくりとなっているだろう)にはかえって恐怖は感じにくくなっているそんな印象があるのだ。回想によって反芻される恐怖のほうがよほどリアルで恐ろしい。
文/春日武彦
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