俳句の一味違った楽しみ方を感じてほしい
―― 読者も、次のゲストは誰だろうと楽しみにしていたようですが、ゲストの選出自体に堀本さんの交遊の広さや、俳句に対する見方の広さみたいなものも出ている気がします。
ゲストの方は、以前お会いしたことのある人が多いのですけれども、お会いしていない方もいて、ぜひこの人の俳句を読んでみたいなと思いお声がけしました。児玉雨子さんは、水道橋博士と動画で対談されているのを見て、そこで芭蕉の話をしていて、こんなに芭蕉に対して熱く語る方がいらっしゃるんだなと思い、児玉さんの一句をぜひ見てみたいなと思ったんです。そうしたら快くお引き受けいただき、本当に面白い一句が出てきた(「橙が群青に落ち葉は宙ぶらりん」)。そういう誌面での出会いや驚きというのがいろいろあって、本当に楽しくかつ刺激的な連載でした。
―― 堀本さん憧れの片岡義男さんも出てくださった。
あれは本当にうれしかったですね。もともとすごく憧れていた作家でもあるし、僕が玉川学園の木造の安アパートに住んでいたときに、たまたま片岡さんを道でお見かけして、そのときはドキドキしながら、知らん顔して傍を通り過ぎたんです。当時、まったく声もかけられなかった片岡さんが、時を経て誌面で応えてくださったのには、すごく感動しましたね。
―― 堀本さんの句、「かのひとにこゑかけられず桜かな」も、当時の思いをストレートに詠まれています。
本当に「かのひと」でしたから。あの句は、エッセイを読むと「かのひと」が片岡義男さんだとわかりますけど、あの一句だけを取り出して読むと、「かのひと」をいろいろな人に置き換えられる。多分みなさんそれぞれかのひとっていると思うんですね。それは憧れの人であったり、好きな人であったり、別れた恋人であったり、いろんな関係性でかのひとがいると思うんですが、その人に声をかけられず、桜を見上げるという。桜も様々な思いを受け止めてくれる花ですね。
だから、俳句だけ取り出してみると、それを読む人の個々の体験から自分に引きつけて読むこともできる。それも僕は俳句の象徴性の高さであり、豊かさであり、膨らみだと思います。そういう鑑賞の仕方も、この本の楽しみ方でもあるんじゃないでしょうか。
それはすべての句にいえますね。たとえば光浦靖子さんの「運針は秩序に沈み春めけり」も、縫い物をされる方だったら、自分が何か縫っている場面とか、誰かが縫っている場面とかのイメージがぱっと浮かんだりするでしょうね。
―― 連載の最初の頃は、新型コロナウイルスの感染拡大を背景にして詠まれた句も多くありましたが、三年たったいま読むと、同じ句が違って読めるということもあります。
ええ。コロナのように社会的に非常に大きな出来事の場合、その状況を除いてみると、それはそれでまた新しい風景が広がったりするかもしれない。
―― 季語の説明があったり、堀本さんが解説の中でさまざまに俳句の説明をしてくださっているので、入門書的な役割もあります。
ゲストの方がエッセイの中で自分の俳句について軽く触れている回もあるし、説明してくれている方もいらっしゃいます。俳句の世界では自句自解といって、自分の句を自分で解くということがあります。それはそれでもちろん句を読む手助けになるんですけれども、客観的に僕が見た、他人が見たその人の一句というのを、僕が俳人の視点でちょこっとだけ解説するというか、鑑賞することも大事なんですね。
そうすることで、ゲストの方はこういう句を詠もうとしていたんだ、季語はこういうふうに生きているんだとか、読者の方が一句を読むときの手助けになればと思って、毎回簡単な説明を入れるようにしていました。
いま、俳句がNHKでも民放のバラエティーでも取り上げられたり、いろんな俳句の楽しみが提示される中で、また一味違った俳句の楽しみ方を今度の本で感じていただければうれしいですね。巻末の又吉さんとの対談も、ぜひお楽しみに。