「哀しみのカオルコ」による顔面現代史
姫野カオルコは神経症的な両親に、おまえは「ぶさいく」だと刷り込まれながら育った。「にんじん」である。護身のために人の顔色をうかがう技術を身につけた「にんじん」は、長じて他者の顔面に鋭敏な批評家となった。
その情熱はまず「顔面相似形」に注がれ、「長谷川一夫とちあきなおみ」「ダニエル・クレイグ(「007」シリーズ)と久世光彦」などを「発見」したのだが、スターではなく人気者にしか興味のない現代人は、彼女の観察眼と批評眼についていけなかった。
彼女が映画俳優の顔の研究を始めたのは中高生だった一九七〇年代だが、管理され過ぎた田舎の子は映画館に行けない。テレビが放映時間の埋め草として流していた玉石混淆の邦画を懸命に見た。
「物語の多くさぶらふなる、ある限りみせたまへ」と冀った『更級日記』の菅原孝標女のようだった。どうしても見たいのに見られない映画は、自分の想像力でつくった物語に俳優を主演させて「頭の中のスクリーン」に上映した。
以来半世紀、技をみがいて慈姑の味がわかる年頃になった「にんじん」は、哀しくもおかしい「顔面批評」の本を書いた。
三宅邦子(小津安二郎映画の常連の年配美女)、京マチ子(ヴェネチア国際映画祭で場をさらった)、田宮二郎(カッコよさの典型なのにユーモアがあった)、飯田蝶子(小うるさい永遠のおばあさん)、左幸子(天才的娼婦役)、古尾谷雅人(高身長で、とても情けない印象)など俳優の好みは、すでにこの人の才能のあらわれである。
そしてこの本『顔面放談』は、実は顔面研究のユーモア読み物にとどまらない。著者が自身の思春期を語りながら、雑駁ではあっても向上心に富んでいた一九七〇年代日本社会を記述する「歴史文学」ともなっているのである。