どう「ウィン・ウィン」をつくるかが政治の役割

 政治とは、どうウィン・ウィンをつくるかだと思います。子どもを優遇すると高齢者が怒ります。障害や福祉と言うたら嫌われます。そうじゃなくて、子どもを応援することは、地元経済が元気になって、商売人も建設業界もラッキーですよ、おまけに、財政に余力が出来たら、高齢者施策もできますよと。

つまり、みんなハッピーなんやということ。利害関係者に対して、それぞれ整理をするのが政治・行政であって、誰かをたたいて、あいつをやっつけたらこっちがハッピーという構造じゃない。登場人物全員に対する、それぞれの役割とか位置づけを整理することをやっている。だから、包み込むような政策なんです。

藻谷 長野市の公園廃止事件(2022年、長野市が1軒の家からの騒音被害の訴えをきっかけに、公園の廃止を決めた問題)、泉さん、あれ聞いてどう思いました? 私は「いつの時代の話か」と思いましたね。騒音の発生源が工場や高速道路だったら、工場廃止、道路廃止になるでしょうか。そうではなく、家の方に防音工事をするでしょう。子どもの声がうるさい公園でも、近隣の家に防音工事すればいいではないですか。なぜ「子どもに遊びを我慢させる」の一択になってしまうのか。それは、「子どもは、工場や高速道路ほど大事ではない」と、長野市当局や周囲の大人が未だに考えているからなのです。発想が昭和のままで、令和に対応していません。

「なぜ明石市のコミュニティバスが全国トップレベルの成功を収めているのか。その答えはサイレントマジョリティの声にあります」泉房穂×藻谷浩介_4
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 あれも今どきのテーマです。明石市にも両方の声があるんですよ。明石市で子ども総合支援条例をつくったときは、小学校、中学校、高校生の子どもの声を現場に私は聞きに行きました。その程度によって、遊ぶ時間を決めるとか、状況に合わせてルール化すればいいこと。それをやればいいのに、結局片方どっちかの極端に走ってしまう。子どもが遊ぶのを野放図にほったらかすからうるさいわけでしょう。でも公園を閉めたら、子どもは遊べない。それをどうルール化するかが人間の知恵なのに、その労を惜しんでいる。そこは知恵を絞ることが大事です。

私は、明石の駅前で路上ライブやってる高校生とかいたら、守りますよ。警察が止めに来ても、私が体張って守る。警察は許可取ってないから駄目だと言う。駅前の路上で高校生が許可なんか取ってやるかいな、そんなもん。だから「時間短くして音をもう少し小さくさせますんで」と警察説得して、高校生を守る。そういう光景を、結構みんな見てて、それもまちの空気ですわ。うるさ過ぎは駄目やけど、子どもたちの楽しみも奪っちゃいかん。そこの調整が政治・行政の役割だと自分は思っているんです。公園の問題も一緒やと思います。