「人はなぜペソアに惹かれるのか」澤田直×山本貴光 『フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路』対談_4
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計画倒れの人

山本 これは澤田さんのご本を読んでいて、ちょっと笑ってしまったところなんですが、ペソアは計画を立てるのが本当に大好きですよね。子どもの頃からいろんな計画を立ててはそれが実現せずに終わっちゃう。
澤田 そうそう。ポルトガルの国立図書館のアーカイヴに多数のノートや手帖も残されているのですが、そのほとんどが、このような計画の箇条書きです。若いときからノートにたくさんやりたいことを書くんだけど、その半分も実現しない(笑)。計画だけで終わってしまう。でも、性懲りも無く、同じ計画をまた立てていく。
山本 つい自分を重ねてしまいますが、私も計画するのが大好きで、勝手に共感しています(笑)。もちろん計画を立てるだけでは現実は変わらない。でも、何か構想を練っているときって、ちょっとしかつめらしく言うと、現実を変えることへ向かう潜在性を計画している感じがするんですよね。それが何かの拍子で実現したなら、それによって世界がちょっと変化する。計画を考案している人の頭のなかにあるのは、そういう別のあり方への希望や期待でもあるわけですね。ペソアが計画好きだというのは、いい話だと思います。
澤田 そうですよね。ペソアは野望がかなり大きいんです。本人の生活とはかけ離れた、大規模な計画をいつも立てている。たとえばポルトガル文化を世界に普及することを目的とした「ポルトガル倶楽部」という大きな組織のプロジェクトもある。実現可能なちまちましたものではなくて、古典作品の叢書を受け持つ出版部門、正書法改革を担う言語部門、その他もろもろあって、ほとんど国家規模の事業のような計画で、びっくりします。誇大妄想というのとはちょっと違う、気宇壮大なところがあります。
山本 若い頃に、転がり込んできた遺産を使って自分の評論を刊行するための出版社を設立するでしょう。あの話を読んでバルザックのことを思い出しました。彼の場合は儲けのためだったかもしれないけれど。
澤田 鹿島茂さんの解説によると、バルザックは小説家がなぜ儲からないのかを考えた結果、出版社が搾取しているからだと思い至ったようです。それで、自分で出版社を立ち上げたんだけど、全然儲からない。今度は印刷所が搾取してるんじゃないかと考えて、印刷所を始めた。でも、事業はことごとく失敗し、借金まみれになり、それを返済するために次から次へと作品を書いた。印税をもらうことが結局は一番稼ぎが良かったというアイロニカルな結末です(笑)。ペソアの場合、実際にポルトガル語で刊行した詩集は『メンサージェン』だけでした。これが刊行された理由はいくつかありますが、大きかったのは賞金目当てだったことです。当時、独裁体制を確立したばかりのサラザールの国民広報局が国威発揚のために、公募の文学賞を開催するのです。ペソアの友人が企画に絡んでいたこともあって、ペソアは賞金目当てに応募しました。結果は次点に終わってしまうのですが。この文学賞がなければ、計画倒れのペソアのことですからこの詩集も完成しなかったかもしれません。
『メンサージェン』は、英語で言えばメッセージですが、建国神話を扱う詩集です。この詩集については今回の伝記のなかで一番書き切れなかった部分が多いです。ペソアにとって祖国とは何か、偏狭な愛国心とは異なるパトリオティズムとは何かという問題は複雑なものです。彼は当時の政治家たちが考えるようなポルトガル復興の動きには反対でした。でも、一方で、彼のなかにはポルトガル語は偉大な帝国的言語だという確信があるのです。そういう複雑な葛藤を抱えながら、建国の偉人たちを主題に、あたかもカモンイスに対抗するかのような詩集を編む。ストレートな詩もありますが、全体を捉えるのは難しい。いまだに僕にはあの詩集はわからない。その凄さが実感できないと言いますか。
山本 私もあの詩集はうまく読めなくて、なぜだろうと考えていたのですが、今回の評伝を読んで腑に落ちました。やはりポルトガルの歴史や政治的な状況を知悉していなければ、読み難いところがあるのですね。
澤田 唯一共感できるのが、セバスティアン王の神話のところですね。彼は見果てぬ夢を見て、無謀な戦争を起こし、ポルトガル凋落の原因を作ったダメ王様です。ところが、その彼が神話となり、いつかセバスティアン王が霧のなかからおぼろげな姿を現し、ポルトガルを復興するというメシア的な存在に、民衆の想像力のなかで変化する。そこに、ペソアはアンビバレンツなポルトガルの未来を読み取ります。ただ、この詩集はペソアがポルトガル語で刊行した唯一の作品なので、ペソアが気になった人が最初にこの本に手を伸ばすと……。
山本 そこで終わってしまう。
澤田 ええ。かといって『不穏の書』を読もうと思っても、最初から最後まで読むのがなかなか難しい。半―異名者ベルナルド・ソアレスが著者とされる『不穏の書』は、ペソアの散文作品のなかではダントツに面白いんですけれど、未完の草稿ですから、途中だれるところもあって、通読はむずかしい。そこで、これを訳出するときに、そのエッセンスだけを選び、他のアフォリズム的な言葉と併せて、『不穏の書、断章』という形で一冊にまとめてみたんです。この構成は今回の単行本でもお世話になった編集者の佐藤一郎さんの卓見でした。ペソアの作品のあらゆるところにキラキラ輝いている短い文章。そういう断片から入ればペソアの凄さがわかるのではないか、と。あれは、佐藤さんのそんな考えから生まれた本でもあるんです。

ペソア・ウイルスに感染すること

山本 『不穏の書、断章』は、はじめてペソアに触れる人にも親切な構成だと思います。私が教えている東工大は理系の学生が中心で、入学前は本を読んだことがないという人もたくさんいます。そんなみなさんに『不穏の書、断章』から「私と自己について」を紹介すると、授業のあとで「これは自分のことだと思いました」と感想を教えてくれる人が毎回います。自分事として詩に出会うわけです。あの本は、巻頭に置かれたペソアについての言葉や断章から、『不穏の書』のほうへ誘うという編集がとてもいいなと感じています。
 そもそも『不穏の書』の場合、これが唯一というエディションはないんですよね。だから本を編む人がその配列を作ることになる。これは私が親しんでいることに重ねるなら、どこかカードゲームに似ていると思います。ペソアの詩を読むのは、カードゲームのデッキ(カードの組み合わせ)を作るのに近い。誰かが作ったデッキをそのまま受容する読者もいるけれど、深く入れ込むと、自分だけのデッキを編んでみたくなる。そういう風に読者を作り手の側に引き込んでしまう力を持っているのが、ペソアの詩なのではないかと思ったりもします。
澤田 まさにおっしゃる通りだと思います。完全に固定された完成した作品にはない、そういう可動性がペソアのテクストの魅力ですし、シャッフルして自分なりに並べ替えたときに、また違う風景が見えてくるというのもペソアならではですよね。
山本 『不穏の書』には、人間の心は風景みたいなものだし、天気のように入れ替わっていくものなんだということが書かれていますよね。そういう一つの精神状態を「断章」という形で固定はしているんだけれども、配列やボリュームはこれと定まっていないので、いくらでも並べ替えることができる。どういう順番で読むか、決まっていないわけですから。
澤田 それでいて、ペソアには一度、読む人のなかに入るとそこで増殖していく感じがあるんですよね。先ほどの学生さんのように、感染してしまうとなかなか抜け出せなくなる。だからこそ、文学だけでなく、映画、音楽、舞台芸術に携わるいろんな人たちが自分のペソアを作っていこうとなっています。ヴィム・ヴェンダース、マノエル・ド・オリヴェイラといった監督、アントニオ・タブッキ、ジョゼ・サラマーゴといった作家たちが、自分のペソアを造形していく。ペソアを読むことが終着点じゃなくて、出発点になっているのが面白い。私はこれをよく、ペソア・ウイルスに感染すると言っています。最近のご時世だと少し使いづらいのですが。
山本 本当にそうですね。ウイルスといえば、ウィリアム・バロウズが「言語ウイルス」という喩えをしていましたね。そもそも言語は自分で発明したものじゃない。どこかで誰かが作って使ってきたその集積を一旦受け入れて、自分の身体を明け渡す感じが私にはあります。言語ウイルスと共生することによって、考えや行動が変わるというか。そこにきて、さらにペソア・ウイルスに感染すると、手が勝手に動いたり、体がどこかに出かけていってしまうような感覚を覚えます。ペソア・ウイルスが頭のなかで動き始めて、何者かになる。澤田さんも評伝のなかで「ペソアの言葉を書き写すのは、なんだか少しだけペソアその人になったようで心地よい経験だ」と書かれていました。これは本当にそうだと思うし、なぜペソアだとそうなるのか、どこに秘密があるのか、不思議ですよね。
澤田 今、山本さんがおっしゃった言語の問題は重要で、ペソアを読むという経験はある意味では外国語を習得することに似ていると思うんです。英語を学習し始めると身振りが突然、大きくなったりするじゃないですか。あれと同じで、ペソアが入った瞬間に自分の行動が変わるというのは、異物を受け入れ、それに支配されることで、ドーパミンが溢れ出るからなのかもしれません。突然、ポルトガルに行きたくなったりしますしね。
山本 突然、仕事を辞めちゃったりするかもしれない(笑)。あるいは、明日できることは今日しなかったり。
澤田 でも、計画だけはたくさんある(笑)。
山本 そうそう、夢みがちになったりしてね(笑)。

オカルティズムとペソアの関係

澤田 最後にオカルティズムの話をさせてください。今回、伝記を書くうえで難しかったもう一つはオカルトの部分でした。彼のオカルティズムをどこまで本気で読まなければいけないかがわからなかったのですが、ペソアを理解するためにはオカルティズムは避けて通れません。彼はその手の本を多数読んでいただけでなく、ブラヴァツキーやベサントを翻訳出版しています。また、秘教的な詩も多数書いているし、そもそも『メンサージェン』という詩集が「隠れたるもの」を巡るメッセージなのです。ペソアはキリスト教を否定し、異教的な世界を再構築することを提唱しているわけですが、その一方で、オカルト的なものこそが世界の真理を教えてくれると確信に満ちた手紙も書いています。
山本 オカルティズムについての章で、アレイスター・クロウリーとの交流も書き込まれていますよね。あそこはとても愉快に読んだ一コマでした。先ほどお話に出たように、ペソアは同時代の科学にも関心があった。蔵書には相対性理論に関する本もあったりして。二十一世紀の現在から見ると、科学とオカルトは相容れない感じが強いかもしれませんが、二十世紀初頭は科学とオカルトは重なって見えるようなところがあったように思います。
 少しペソアの文脈から外れますが、二十世紀のはじめ頃、特殊相対性理論が提示されて程なく、アインシュタインの先生の一人、ヘルマン・ミンコフスキーが「四次元」という概念で整理しました。三次元の空間に時間という一次元を加えてまとめて扱おうというわけです。それと前後して、シュルレアリスムや未来派など、前衛芸術の各方面で四次元という概念(ミンコフスキーの用法とは違う場合もありますが)に刺激を受けた作品が現れています。一枚の絵に時間的に連続した一連の動きを表現するような絵画は分かりやすい例でしょうか。四次元という科学の概念が、他の分野にも波及していたわけです。これは、神秘思想やオカルトにも親和性の高いアイディアだったと思います。
澤田 確かにそういう同時代性は重要ですね。ベルクソンだって神秘主義に強い関心を示していましたし、他にも二十世紀初めのフランス哲学では神秘主義がきわめてまじめに論じられていた時期があります。ペソアの場合は、神智学、グノーシス主義、薔薇十字思想など異端の思想全般に通底するものを真剣に考えていました。
山本 そうですよね。科学は基本的に繰り返し確認できる現象を相手にしますが、それで万事を説明できるわけではない。それ以外のことをどう理解できるか。百科全書的な関心を持っていたペソアが、オカルトにも興味を向けていたのは自然なことなのかもしれません。あと、個人的にもう一つ面白かったのは、ペソアの占星術好みです。異名者のホロスコープを描いたりしている。占星術の知は、ヨーロッパの文脈でいえば、少なくともルネッサンス以来、人々が地上と天空の出来事を照応させて考えていたことを明かすものだと思います。自分と結びついた天体が今どうなっているのかを見れば、その運命も読み解けるという発想がその基礎にありました。ということは、マクロコスモスのなかのミクロコスモスたる自分が連動して何か起きている、といった宇宙の見方を好んでいなければ、ホロスコープを描いたりしなかったと思うんですよね。
澤田 おっしゃる通りで、ペソアはそういう意味でも、近代的な自我とはまったく違う世界観を持っていました。近代的な自我の考えというのは、環境から遮断されてもそれだけで存在するものですよね。デカルトの哲学はまさにそのようなものでした。でも、ペソアはそういう風には考えない。あらゆるものが環境との関わりのなかで存在する。だから、自分や知人といった個人のホロスコープだけではなく、『オルフェウ』といった雑誌自体のホロスコープも作っていた。ペソアは一時期、職業的な占星術師になろうと考えていた時期もあるほどのめり込んでいて、異名者のなかにはラファエル・バルダヤという占星術師もいます。
山本 雑誌のホロスコープ! そう考えるとペソアって、彼が書いたものも含めて、エコロジカルだと思うんです。「自然を守ろう」という意味でのエコロジーではなく、その言葉を作ったエルンスト・ヘッケルの、あるいは、その意味をさらに拡張したフェリックス・ガタリの文脈におけるエコロジー。ガタリは、かつて環境問題が取り沙汰されたときに、多くの人は自然をどうにかしようと対症療法的に考えるけど、それだけでは駄目だと言いました。エコロジーは自然環境だけの問題ではない。我々は社会というエコロジーも作っているし、そのなかにいる個人の精神のエコロジーもある。だから、自然環境と、社会、それから個人の精神、少なくともこの三重のエコロジーで物事を見なくては地球環境の問題は解決できないのではないか、と考えたわけです。つまり、ここで言われているのは、複数の重なり合う関係をどう見るかという問題ですよね。それこそ仁科の言葉ではありませんが、環境のなかにいる私が環境を変える。その環境によって私が変わる。そこがどうもペソアに重なるような気がするんです。
澤田 まさにそうですね。だから、ペソアには多島海をモチーフとしたカリブ海の詩人・思想家エドゥアール・グリッサンが提唱した「〈関係〉の詩学」という考えに通じる部分があると思います。単一起源ではなく、複数のパースペクティヴに基づいて捉え、開かれたアイデンティティを考える。そういう意味では、ペソアって、ポストコロニアルだったり、複数言語だったりといった現在、世界文学が問題にしているような主題系を先取りしていた作家でもあるんですよね。
山本 それは今日のお話にもあった、彼が計画を最後まで完成させずに、断章をたくさん残したこととも関係すると思います。つまり、ストーリーが完全に固定されていると、その文脈で捉えなければならないのですが、ペソアの場合、文脈から離れてもなお、魅力を持ち続ける。接続可能性が高いとでも言いましょうか。そんなこともあってか、エコロジーを考えざるを得ない我々にとっても、そのまま使えてしまう遺産の山なんですね。
澤田 そうそう。だから逆に断片がまた生きてくるんです。一つのユニットとしてのペソアの世界はもちろんあるんだけど、でも、それは無数のピースからできあがっていて、それぞれの機能が一つじゃないから、それらをマルチに転換できるわけですよね。このピース、こっちに置いても繋がるじゃん、というのがペソアの面白いところです。逆にばらばらに分解しても読めてしまいますし。
山本 しかも作品を通して、他であること、変わり得ることを肯定している。受け取った側もそうでもありえるのか、と気づかされる。一つの不変的な個という息苦しさから解放してくれるというのかな。そういう作用があるのも魅力です。
澤田 だから現代風な言い方をすると、ダイバーシティを肯定するような懐の深さがあるから、息苦しさを感じている人たちにぜひ読んでほしいですね。なかなか話が尽きませんが、話がまとまらないというのも、ペソアらしくて良いかもしれません(笑)。

(2023・7・22 神保町にて)

「すばる」2023年10月号転載

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