ショーパブで苦楽を共にした後輩・オードリーのブレイク

時を同じくして、オードリーにブレイクの兆しが見えていた。

今思えば、俺と若林は面白いと思う視点が似ていた。あの人のネタのあそこが面白い、あれはウケてるけど面白くない、といった価値観がかなり一致していたから、若林にネタの相談をすることも多かった。ライブのあとは、「あそこをもっとこうしたらいいんじゃないですか?」とアドバイスをもらうこともあった。若林は「笑いのイロハ」を知っていたから頼れる存在だった。

その一方で、若林は大学卒業後、ずっと芸人しかしていない世間知らずでもあった。サラリーマンから水商売まで、いろんな経験した俺が、世間の常識・非常識を教えた。そんなふうに互いに足りないものを補っていたのだろう。

ショーパブで苦楽を共にしたかわいい後輩でもあるオードリーは、2008年のM−1グランプリを敗者復活から勝ち上がり、決勝でも見事大爆発。春日の強烈な個性に、お茶の間は釘付けになった。優勝こそ逃したものの、そこからコンビは大ブレイクを果たす。

オードリーのM−1決勝当日、俺はいつも通りショーパブに出演した。後輩は人生初の晴れ舞台、一方の俺はいつもの酔っ払い相手のステージ。だが、彼らの活躍を誰よりも祈っていた。

ようやく帰宅してテレビをつける。画面の中のオードリーのふたりは輝いていた。俺がずっとそばで見てきたネタで、観客が爆笑することが素直にうれしかった。悔しさなんてまったくない。だって俺ももうすぐそっちに行くのだから。オードリーの準優勝に興奮冷めやらぬ俺は、狭いリビングで祝杯をあげた。

スベった日は「笑いのセンスがない客だな」と思っていた…バキバキに尖っていたTAIGAがギャラ飲みをスッパリ辞めた理由_2

ショーパブを戦力外通告

2011年。芸人としての原点といえる新宿のショーパブ「キサラ」は変化を迎えていた。ずっとお世話になっていた店長は、リーマンショックで軒並み飲食店の売り上げが下がる中、その責任を取る形で退職していた。

新しい店長のもと、店の営業は再開したが、今度は俺がクビになってしまった。経緯を細かく書くと長くなるので割愛するが、まぁ戦力外通告のようなものだ。

当時は「こんなやり方は間違っている」と憤りを感じ、周囲に不満を漏らしていたが、今となってはよい卒業の時期だったのだと思う。間違いなく芸人としての原点であり、俺を育ててくれた大切なお店だ。今でも感謝している。

勤め先をクビになり、日銭を稼ぐ場がなくなり途方に暮れていた頃、茨城県土浦市にある「歌芸夢者」というショーパブから声をかけてもらった。

クビになったことを伝えると、「新宿に出れなくなった分うちの店においでよ。俺が食わせてやるから」と社長は言ってくれた。捨てる神あれば拾う神あり、とはこのことだ。今でもこの社長の言葉に恩を感じている。

一方のショーパブは、オードリーの活躍により連日テレビで紹介され、俺がいた頃には想像もつかない人気店となっていた。連日のようにテレビに映るかつての仕事場を、まるで知らない場所のように感じている自分がいた。もう、あの場所には戻ることはないだろう。

月に5回ほど土浦に通う日々が始まった。片道1時間の土浦行きの電車に揺られながら、俺はこの先どうやって食っていくのだろうと思った。