“演技も歌もうまくて面白いこともできる天才”だと思っていた
23歳で脱サラしてスターを目指した俺が、芸人を名乗るのはこれよりすこしあとになるのだが、最近は「同期は誰ですか?」と聞かれることが増え、そのたび答えに困ってしまう。
なぜなら、ものすごくボンヤリと芸人になったので、養成所の卒業年や、デビュー年がわからないからだ。最初はタレント志望だったし、芸人になったあとも、どこまで芸歴をさかのぼってカウントしていいのかわからない。
1999年に初めて芸能プロダクションに所属した時の仲間は、間違いなく俺の同期だ。稽古やオーディションなどが終わると歌舞伎町に飲みに行った。
俺はいつもみんなを笑わせていた。仲が良かった奴と漫才やコントみたいなやりとりをすると、みんなが笑顔になるのがうれしかった。
当時の俺は、自分のことを「演技も歌もうまくて面白いこともできる天才」だと思っていた。なんという自信だろう。
だけど、周囲の同期たちも俺と同じように自信家だった。酒を飲みながら「売れたらこんなことしたい」「あの街に住みたい」と大きな夢を語り合ったもんだ。だが、彼らの多くはとっくにこの業界を辞めてしまった。
プロダクションを掛け持ち…とにかく売れればなんでもよかった
ところで、もう時効だろうからこの場を借りて言わせてもらうが、デビュー当時、実はもうひとつの芸能プロダクションからも合格通知をもらっていた。悩んだ結果、ふたつの事務所に所属していた。
業界のルールも何もわかっていない俺は、かけもちして、どっちかうまくいきそうなほうでいいや、くらいに考えていた。
ふたつの事務所に在籍していたから、どちらからか仕事がくればそちらに行き、どちらの事務所にも顔を出した。とにかく売れればなんでもよかった。どちらの事務所でも、マネージャーさんたちに顔を覚えてもらうように挨拶回りをする、といった小さな努力は欠かさなかった。同時に自分の特技を伝えて、こういう役をやってみたい、こんな番組に出たいともアピールする。
事務所の中でも、力のありそうなマネージャーに気に入ってもらおうと、飲みに誘ったこともあった。その結果、仲良くなったマネージャーが、俺に優先的に仕事をふってくれるようになった。
初めてもらった仕事はCMのエキストラだった。携帯電話のツーカーセルラー東京(その後KDDIに吸収)のCMの通行人役だ。砧スタジオに50人くらいのエキストラの男女が集められ、その50人が渋谷のスクランブル交差点みたいに行き来し、その真ん中で主役が携帯電話で話すというシーンだった。
代役の女性を主役に見立てたリハを何回もやったあと本番が始まる。「入りまーす」の声の方向に目をやったエキストラたちは「おーーっ」とどよめいた。この世界で売れたいと思ってることなどすっかり忘れ、ただの一般人と化していた。それくらい女優さんは美しかった。一流芸能人が放つオーラに圧倒されたまま、俺の初仕事は終わった。