テレビでもラジオでもできないけど
文章ならできる“表現”

――最新の「読書芸人」(2023年4月20日放送)でニシダさんの自宅本棚を公開されていましたが、その中に「小説の書き方」系の本が何冊か散見されました。小説を書くにあたって読まれたんですか?

ニシダ はい。書くことになってから「何かヒントがないかな」と思って文章読本的なものを10冊くらい読みました。でも読めば読むほど「こういう表現はやってはいけない」「こうするべき」みたいなことが増えていって、一文字も書けなくなっていくんですよね。それで読むのをやめました。

又吉 人それぞれ違いますしね。

ニシダ 小説家さんのインタビュー記事を読んだりしても、どういうふうに書いているのか、みなさん全員やり方が違いますよね。それこそパソコンで書いている人もいればスマホで書く人もいますし。

又吉 もちろん最低限のルールはあるとは思うけど、そういう文章術の本を読んだ全員が面白い小説を書けるかっていったら絶対書けないじゃないですか。だから「このルールを守ってたら平均的なものは書けるようになりますよ」って本だと思うんですよね。僕は読んだことがないけど、その中で「やったらあかん」って言われることをやったほうが、とんでもない大惨事になる可能性もあるけど、むしろ面白いものができるって勝手に思ってます。途中で読むのやめてよかったんじゃないですか。

ニシダ そうですね。絶対何も書けなくなってたと思うんで、やめてよかったです。

――小説を一編書き上げると、書いたことがないときには見えなかったものが見えてくるのではないかと思います。

ニシダ
 今までは表現の方法が「芸人」の一個しかなかったんですけど、別の方法があるんだなと思ったらだいぶ楽しくなりました。あの、僕、ネタを書いてないんですけど…ネタ書かずに小説書いてるやつもあんまりいないと思うんですよ。

又吉 たしかにね(笑)。

ニシダ でも、ほかのところで話すには弱いだろうなってことを出発点にして小説が書けたりするようになって、それはうれしいです。ラジオで話したら20分ぐらいかかって笑いも起きないようなちょっとしたイライラした話も、文章にはできますよね。そこが一個変わった気がします。

又吉 それはありますよね。たとえば、朝までバイトして早朝の電車に乗って新宿から吉祥寺に帰るときに、登山服着て高尾山に向かう老夫婦が乗ってきて、席をゆずるかどうか、とか。「これから登山する老人って元気やから別に座らんでいいんちゃうかな」「俺はもうバイトで疲れてんねん、座ってていいやろ」みたいな、そういう葛藤ってライブでも当然テレビでも話すタイミングないじゃないですか。

でもエッセイやったら、そういうことをずっと考えながら書ける。そうすると今度は漫才やコントの中にそういう細かい感覚を入れて戻すやり方がたまにわかったりして、そういうのも面白いですよ。ニシダくんの文章を読むと読書量がすごく見えるし、何かずっと書いてきたのかなと思ったんやけど、そんなこともないんや?

「東日本大震災の後、漁で獲れた魚から人間の爪や髪の毛が出てくることがあるという話から着想を」ラランド・ニシダと又吉直樹「抱えきれないものを文章に」_3

ニシダ 人に見せる文章を書くようになったのは仕事になってからで、日記レベルでしか書いたことはなかったです。

又吉 比喩的な表現とかもよく使ってるやんか。しかもベタじゃないたとえで。だからネタ書いてそうに見えるけど、書いてないんやね。設定はどうやって考えたの? 普段からネタを書いてたら、まずこういう人間が出てきて…って考え始めると思うんだけど、そうじゃないのによくああいう繊細で絶妙な関係性になったよね。

ニシダ うれしいです。みなさんがどうやって考えてるのか、本当に知りたいんです。決まった方法論もなくて、本当に日常で気にかかったこととか、できるだけ小さなものから拾ってきて毎回書いてるんですけど、又吉さんはどうされてますか?

又吉 そう聞かれてみるとわからなくなってくるけど……なんとなく、コントもそうだけど、誰か1人のプロフィールを書いていくというよりは人間と人間の関係性で作っていくのが好きで。

それも、ちゃんとしてないやつを、ちゃんとしてる人が指摘しながら訂正していく、いわゆるボケとツッコミというよりは、ちゃんとしてへんやつとちゃんとしてへんやつが関わりながらどんどんズレていくみたいな関係性が結構好きかな。そういうのから作っていくことが多いかもしれないですね。