私小説にとっての真実とは何か

――著者=主人公という等号が成り立つかどうかというお話は煎じ詰めれば、私小説とは何か、という問いに行き着くのかもしれません。今回の『時々、慈父になる。』も島田さんご自身、私小説として捉えていらっしゃいますし、金原さんも『文藝』(二〇二〇年秋季号)で「特集:私小説」の責任編集をされていました。では、お二人にとっての私小説とはどのようなものなのでしょうか。例えば、金原さんは「特集:私小説」の「プロローグ」で二〇〇六年の作品『オートフィクション』以来、ずっと私小説に関心を抱いて来られたと書かれています。それはどういう関心だったのでしょうか。

金原 私の書く主人公は、著者を彷彿とさせる、とよく言われるんですが、私は全く気にしていないんです。そもそも小説は自分自身とは切り離せない表現ですから。自分の思想や体験が自然と入り込んでしまうものだし、あえてそれを排除するべきでもない。だからフィクションはノンフィクションでもあって、その二つは不可分だと思うんです。だとするなら、重要なのは何を書いて、何を書かないか、その選択のほうにあるのでは? ということを、私は「オートフィクション」という概念を知った時からずっと考えてきました。私小説に対する関心は私の場合、そこにあります。
 当然、私が小説を書く時、作品に書かれている言動やエピソードが実際にあったものとは限りません。現実に起きたことが私のなかに入ってアウトプットされるとき、言葉選びや、何を描写し何を描写しないか選ぶ段階で、ありのままの現実を描くことにならないことは確定しています。つまり表層的な部分はフィクションだとしても、そこで行われた魂の働きについては真実である、というのが私にとっての私小説で、それらは全て本当か嘘か断じられるものではなく、全ては本当と嘘のグラデーションの中にある、というイメージで捉えています。
島田 おっしゃっていることはよくわかります。僕の今回の作品だって、僕のフィルターを通して書いた、僕にとっての真実に過ぎないわけだから、関係者が読んだら違うものとして受け止めるでしょう。私小説とは必ずしも経験された事実だけを書くものではない、というのは僕もその通りだと思う。私小説のなかに架空の人物が出てくることだってありうる。そもそも自己像なんてものは固定されたものではないから、自己像そのものが変異することだってあります。「私」自身が複数化し、多層化、多様化する、その様態を書くことだってできる。真実は一つだけではありませんから。
金原 そうなんです。例えば、誰かと話をしていて、その意見に同意する私と同意できない私が生まれることってありますよね。自分自身のなかにたくさんの私がいるわけだから、そのなかのどれを選び取るか、あるいはどれとどれ、あるいは三つでも四つでも、どれをいくつ選び取るかが、小説を作り上げる時の力になるんだと思います。
 だから私はこれまで、私小説を書くという意識で作品を書いたことはないんです。自分に今書けることを書いているだけで、それらは全て、フィクションとノンフィクションの間にある、それ自体はもう決まりきっていることなので。
島田 つまり言い換えると、小説を書けば多かれ少なかれ全部私小説になるということですよ。なぜかと言うと、明らかに自分とは異なる人物を主人公に置いたとしても、そこには自意識の投影があるわけですから。複数の人物を動かすとしても、その声色を使って語らせること自体が作者によるコスプレだったり、変身だったり、憑依だったりします。
 そうやって小説家は自己の意識を複数化し、多層化して物語を紡いでいるわけなので、冒険小説だって歴史小説だってSF小説だって、そこに出てくる登場人物は自意識の分裂化によって作られた存在と考えていいと思います。だからその小説に出てくる全ての登場人物を総合させたものが「私」なのだと言ってもいい。そう考えれば、あらゆる小説は私小説であるという言い方も別におかしくはないとわかってもらえると思います。僕だって、今回の作品で私小説という形式を借りて、「私」が「私」を偽装したり、「私」が「私」に憑依したりするようにして書きました。「私」には折々の「私」がいるのであって、それを全て対象化して小説にまとめると、どこか他人に見えますよね。
金原 このなかで島田さんは自分のことを細分化して、「彼奴」と呼んでいますよね。あれはすごくしっくり来る表現でした。自分の中に手に負えない部分を感じる時、私も使おうと思います。
島田 書くことである時期までは自分だった「私」を自分のなかから放逐する感じと言いますか。そうすると、ちょっと自分のなかに空きが生まれるから、そこに別の要素を入れて、また違う「私」のコスプレをする。そうすることで「私」を更新し続けるということをやらないと、いつも同じところに止まってしまい、作風のリニューアルなんてできません。
金原 ほんと、そうなんですよ。小説を書く醍醐味は「私」の更新にこそある。私は長女の出産後、数ヶ月育休的に書くことを休んだ時期があったんですけど、そのとき、何これ、やばい、と思って。自分がずっとその場に止まって、腐っていってる感覚があったんです。自分自身はものすごいスピードでアップデートされてるのに、それを書けないのはこんなにも苦しいのか、と。このままでは死んでしまうと恐怖を感じました。
 だから、その意味では私にとっては小説もエッセイも一緒です。両方ともに、自分を放出する手段であって、エッセイだから実際にあったことを書いているというわけではありません。エッセイを書いてくださいという依頼を受けたから、エッセイとして書いているだけで。
島田 小説だろうが、エッセイだろうが、詩だろうが、俳句だろうが同じなんですよね。若干アウトプットが違うだけで。要するに、世の中に真実として流通しているものの大半はフィクションなんです。政治や経済も説得力のない、劣悪なフィクションで、首相も官僚も自分の役をろくにこなせない不完全なキャラに過ぎない。
金原 そうですよね。今日、ここで起きたことをみんながそれぞれ文章にしても、インプットとアウトプットの媒介者が異なるだけで、全く異なる物語が描かれるでしょう。
島田 小説家が小説のなかで書く真実=嘘というのは、結局のところ、リアリティという問題に回収されるんです。つまり、フィクションで書いているんだけど、実話だと誰もが信じたくなるようなリアリティの精度が問題になるわけです。小説だろうが、映画だろうが、リアリティをどうやって作り上げるかが勝負になる。
金原 そのリアリティが何によって補強されるのかと言えば、必然性なんだと私は考えています。著者自身のなかに物語を書く必然性がどれだけあるか。それによってリアリティの強度が決まる。新人賞の選考をやっていると、コンセプトが先走ってリアリティがついてきていない作品に出会うことが多いんです。でも、そんななかに、作者はどうしてもこれを書かなければいけなかったんだろう、と思わせるすごい力を持った作品もあって、受賞に至るか至らないかはそういうところに差があるのではないかなと思います。
島田 今のはとても重要な話で、要は、リアリティというのはテクニックだけでは作れないってことですね。書き手が全く信じていないものをテクニックを駆使して真実らしく書いても、どうしても嘘くさくなる。書こうとしているものに対する信頼や信仰や信用がないと、リアリティの精度が上がることはないわけです。
金原 そうですね。自分はこれを書かなければならないとどれだけ信じているか。自分の表現をいかに信じられるか。小説を書く上でそのことが何よりも大事なわけで、そもそもフィクション、作り話を本気で書くというのはかなりの労力と精神力を使うことですから、そこに小説が持つ力への信頼がなければ書き上げることも難しいんです。そして、その信仰心が強いと、稚拙なストーリーでも、構成に難があったとしても、強烈に心に訴えるものになったりするんです。