避けられがちだった議論…なぜいま、才能教育?
なぜ、国はこのタイミングで、才能教育について議論を再開したのだろうか。
有識者会議が設けられた直接のきっかけは、21年の中教審の答申だ。アメリカの「ギフテッド教育」を例として挙げ、日本では特異な才能をどう定義し、見いだし、伸ばすかという議論は「十分に行われてこなかった」としたうえで、特異な才能がある児童生徒への指導のあり方を検討するよう文科省に求めていた。
社会部の文科省担当だった私は、この会議ができた当初、日本でも米国のようなギフテッド教育を始めようとしているのか、と驚いた。当時の自民党政権は、弱体化する日本経済を再興するため、「イノベーション力の強化」などと訴える科学技術・イノベーション基本計画をつくり、教育や人材育成が必要だと力を入れていた。
その政府の動きと歩調を合わせ、文科省も国のためになるエリートを育てる教育を導入するのではないか、と危惧したのだ。まだ「ギフテッド」という子どもたちの存在やその苦悩を知らず、なぜこの会議を今行うのかということ自体に、私の関心は向いていたのだった。
会議は毎回、オンラインで開かれた。有識者は、11人。メンバーを見て、才能教育の専門家や教育学者、工学者だけでなく、精神科医や学習支援NPO代表らが名を連ねていたことを不思議に思った。エリート教育なのか、特別支援教育なのか、文科省の担当者に聞いても「まったく結論が見えない会議です」とひとごとのような返事だった。
21年7月に開かれた第1回会議ではさっそく、日本で才能教育を議論することの異例さが、次々と委員から指摘された。
「ナーバスな議論。才能をどう線引きするのか」
ある委員はこう指摘した。別の委員も「(学年が)横並びで授業を受けているのに、一部の子どもが取り出され差別化されれば、クラスは変な雰囲気になる」と懸念した。「世の中は嫉妬に満ちていて、才能ある人には厳しい目が向けられやすい」と、社会の理解が必要だと訴える委員もいた。エリート教育に対しては、否定的な意見ばかりだった。